飛鳥宮跡(伝 飛鳥板蓋宮跡)




飛鳥宮跡(伝 飛鳥板蓋宮跡)

板蓋宮 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/板蓋宮

飛鳥寺から歩くこと20分程、

畑の中にひっそりと飛鳥宮跡(伝 飛鳥板蓋宮跡)があります。

ここが、中臣鎌足と中大兄皇子により蘇我入鹿を暗殺

乙巳の変の舞台となった飛鳥板蓋宮跡です。

*正確には飛鳥浄御原宮跡とも言われますが場所は同じです。

伝飛鳥板蓋宮跡

推古天皇から持統天皇に至る7世紀の約100年間、
飛鳥地方には歴代天皇の宮がつぎつぎと造営されたが、
その遺跡はどれもまだ確認されていない。
そのうち皇極天皇の飛鳥板蓋宮については、この付近とする伝承があり
、昭和34年以来、おもに橿原考古学研究所によって発掘調査が続けられてきた。
その結果、掘立柱列で囲まれた東西約156m、南北約197mの長方形の区画(内郭)と、
その南半では中軸線上に位置する5間×2間の門と、7間×4間の建物、
北半ではここに復元したような高床式の大きな建物や大井戸など多くの遺構が検出された。
また内郭の東南に接しては、9間×5間の大規模な掘立柱建物(飛鳥エビノコ大殿と仮称)
を中心とする一区画があり、さらに東の県道沿いには、これらの遺構を囲む外郭の柱列や石溝が
南北に続いていることも明らかとなった。
建物はすべて掘立柱で、周囲に石敷があり、
木簡や土器などの出土物から板蓋宮よりは新しい7世紀末ごろの宮殿遺跡と推定されるが、
下層にも遺構があり、いずれの宮であるかは、なお今後の調査を待たねばならない。

伝飛鳥板蓋宮跡の史跡公園は、この図の赤丸部分だけのようです。

この山あいに都が広がっていたのでしょう。


飛鳥資料館のジオラマ

飛鳥宮跡 一覧

近飛鳥八釣宮(ちかつあすかやつりのみや)
顕宗天皇 485年 – 488年まで。

磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)
欽明天皇 540年 – 572年まで。
奈良県桜井市など諸説あり

豊浦宮(とゆらのみや)
推古天皇 593年 – 603年まで。

小墾田宮(おはりだのみや)
推古天皇 603年 – 630年
皇極天皇 642年 – 643年まで。

飛鳥岡本宮(あすかおかもとのみや)
舒明天皇 舒明2年(630年)から舒明8年(636年) まで。
舒明8年(636年)焼失で田中宮に遷る。

飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)
皇極天皇 皇極2年(643年)から大化元年(645年)まで。
建物の造営方位を南正面にした最初の王宮です。
(岡本宮は地形に合わせ約20度西に向いていた)
宮殿は南北198m以上、東西193mと推定されます。
乙巳の変(645年)で、大化元年(645年)孝徳天皇
は難波遷都、遷都後も維持管理されました。

飛鳥川原宮(あすかかわらのみや)
斉明天 斉明元年(655年)から斉明2年(656年)まで。

後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)
斉明天皇 斉明2年(656年)から天智6年(667年) まで。
斉明元年(655年)飛鳥板蓋宮で即位、飛鳥板蓋宮
が火災焼失後同じ場所に造営されました。
酒船石遺跡・亀形石槽など導水施設、漏剋と推定さ
れる水落遺跡、飛鳥京苑池遺構などの造営が行わ
れます。天智6年(667年)に天智天皇が近江大津
遷都後も維持管理されていた。

飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)
天武天皇 天武2年(673年)から 朱鳥8年(694年) まで。
任申の乱(672年)に勝利した大海人皇子(天武天皇)
は、都を近江から飛鳥に遷し、翌年この宮で即位した。
宮は、甘樫丘東方の旧飛鳥小学校付近にあったとされ
たが、その後の調査により、伝飛鳥板蓋宮跡の遺構が
飛鳥浄御原宮にあたる可能性が有力視されています。
大極殿を造営して飛鳥浄御原宮(朱鳥元年686年)と
します。

参考日本の首都 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本の首都

当時は事あるごとに遷都していたので

一箇所に長くとどまることがありませんでしたが、

ここ明日香の地には時代ごとに都が置かれてきました

各宮総称して飛鳥宮と呼ばれています。

そしてこの明日香に都が置かれていた時代を飛鳥時代といい

約100有余年、日本の政治の中心地であり初の律令国家が築かれた地であります。

伝 飛鳥板蓋宮跡とのことですが、最近の調査によると

飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)の跡であることが判明しています。

それ以前の宮は各年代ごと下の層にあるとのことですが、

真実は発掘調査を待つのみです。

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