白旗神社(しらはたじんじゃ)・法華堂跡 神奈川県鎌倉市




白旗神社(しらはたじんじゃ)・法華堂跡 神奈川県鎌倉市

白旗神社 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/白旗神社

鶴岡八幡宮から少し歩いた所に「源頼朝公の墓」

その麓には白旗神社(しらはたじんじゃ)が鎮座する

白旗神社(しらはたじんじゃ)は、源頼朝を主祭神とするが、

他に義家・義経など、源氏の武将や源氏の氏神である八幡神を主祭神とするものも多く

全国に分布する、源氏の旗 白旗に由来する。

源頼朝公の墓 鎌倉市の記事

白旗神社

由緒記

祭神
源 頼朝 公

例祭日
一月十三日

由緒
この地はもと源頼朝公居館(幕府) の北隅で持仏堂があり、
石橋山の 合戦にあたって髻の中に納めて戦 ったという
小さな観音像が安置さ れ頼朝公が篤く信仰していた。
正治元年(一一九九)一月十三 日頼朝公が亡くなるとここに葬り
法華堂と呼ばれ毎年命日には将軍 が参詣し仏事を執り行い多くの武 将も参列した。
その後鶴岡八幡宮の供僧「相承 院」が奉仕して祭祀を続け
明治 維新に際し寺は白旗神社に改めら れ源頼朝公を祭神として今日に至 っている。
現在の社殿は明治維新百年を記 念して昭和四十五年に源頼朝公報
恩会の方々の篤志によって造営さ れたものである。

持仏…
守り本尊として、常に身辺に置 いて信仰する仏像。

この地は、もと源頼朝公居館(幕府)の北隅で持仏堂があり、

源頼朝が、石橋山の 合戦にあたって髻の中に納めて戦ったという

観音像が安置されていたそう。

『吾妻鏡』によると、その創建は文治五年(1189)。

頼朝没後には法華堂と呼ばれて、

鶴岡八幡宮、勝長寿院とともに三大寺として崇敬を集め

江戸時代には、鶴岡八幡宮の供僧相承院が兼務していたが、

明治維新の後、明治五年に白旗神社となったもの。

北条氏が三浦氏を滅亡させた宝治合戦では、

三浦一族五百名が法華堂に籠り、頼朝の神霊の前で自害したという。

国指定史跡 源頼朝墓  

昭和二年六月十四日
文部省指定

源頼朝は義朝の嫡子で、平治の乱の後伊豆韮山に流され ていた、
治承四年(一一八〇)北条時政の応援を得て、平氏 追討の兵を挙げたが、
石橋山の合戦に敗れ海路安房にのが れた。
しかし関東各地の家人の支持を得て鎌倉に入り、
寿永 三年(一一八五)平氏一門を滅亡し、
ついで奥州の藤原氏を 滅ぼして、全国を平定するにいたった。
頼朝は源氏の御家人武士を統制するため侍所、
ついで公 文所などをおき、幕府の組織をととのえ、
右近衛大将となり、 さらに征夷大将軍に任ぜられて、幕府を開いた。
正治元年 (一一九九)五十三才で亡くなった。墓の下方の平地は当時 の幕府跡である。

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