応声教院 片葉の葦(遠州七不思議)・静岡県菊川市中内田
静岡県菊川市中内田、
浄土宗 松風霊山 応声教院(おうしょうきょういん)へ
桜ヶ池(御前崎市)の竜神伝説、皇円阿闍梨に由来する寺院です。
855年(斉衡2年)勅願により円仁が創建したと伝えられています。
その後、弟子の法然上人が恩師 皇円阿闍梨をしのび、桜ヶ池を訪れた帰途に立ち寄り、
天台宗を浄土宗に、天岳院を応声教院に改名したと伝えられ、
皇円阿闍梨菩提所、桜ヶ池奥ノ院とも呼ばれています。
国重要文化財に指定されている山門は、切妻造、本瓦葺の門です。
1628年(寛永5年)に静岡市常盤町にあった宝台院の山門として建てられ、
1918年(大正7年)に応声教院に移築されました。
寺の南側には、遠州七不思議のひとつの「片葉の葦」があります。
浄土宗松風霊山 応声教院
斉衡2年(855年)比叡山の名僧慈覚大師により、文徳天皇の勅願所とする天台宗天岳院として創建されました。≪比叡山功徳院に住み、その弟子3千人といわれた高僧皇円阿闍梨(こうえんあじゃり)が弥勒菩薩の出現を願って嘉応元年(1169年)遠江桜ヶ池(御前崎市)の竜神になった≫ という伝説があります。のちに、浄土宗を開宗した法然上人が恩師皇円阿闍梨をしのび、桜ヶ池を訪れた帰途に立ち寄って歯吹如来像を安置し、天台宗を浄土宗に、天岳院を応声教院に改名したと伝えられ、皇円阿闍梨菩提所、桜ヶ池奥ノ院とも呼ばれています。
また、京都知恩院末寺、遠江十二支辰巳霊場としても知られ、阿闍梨伝説の縁起書や阿弥陀如来座像などの宝物も多くあります。
境内には鐘楼堂、愛染明王堂のほか、10万体奉安できる水子地蔵菩提所、のんべえ地蔵堂などが建てられていますが、石段を上がったところにそびえ立つ朱塗りの山門が、ことに寺風を高らしめてきました。この間口7.8メートル、奥行3.6メートル、切妻造りの八脚門は、寛永5年(1628年)徳川秀忠により静岡市の名刹「宝台院」に築造されたもので、大正7年(1918年)この地に移築されました。
桃山時代の作風を今に伝える貴重な建造物として、昭和29年に国の重要文化財に指定されました。
応声教院 山門
応声教院 山門
應聲教院の山門は、石段を上がった入口にそびえ立つ朱塗りの門です。間口7.80m、奥行3.63m、切妻造、本瓦葺八脚門は、昭和29年9月17日に国の重要文化財に指定された建物です。寺院の八脚門は側面を2間とするのが通例ですが、この山門は側面を1間としています。太い角柱上に冠木を渡し、軒の出を腕木で支えるなど、実に剛壮雄大で優美さがあり、全体の構造形式は城門に近いという特徴のある門です。この山門は寛永3年(1628)2代将軍・徳川秀忠が亡くなった母の供養にするため静岡市の名刹「宝台院」に築造された大門でした。大正4年(1915)に應聲教院がゆずり受け、大正7年(1918)この應聲教院に移築されました。安土桃山時代のやさしい上品な味わいがあり、東海第一の山門と呼ばれています。 (応声教院 H.Pより)
銘梵鐘と鐘楼堂
銘梵鐘と鐘楼堂
当山には、その昔、什宝(じゅうほう)の鐘と禁酒の鐘(旧菊川町、相沢作次郎氏一寄進)の二基の梵鐘(ぼんしょう)がありましたが、昭和17年(1952)大東亜戦争のため供出して終わりました。以来復元の機を得ずいましたが、当山第54世祥誉察音(しょうよさつおん)住職が、梵鐘復元を一大願望として日夜精進(しょうじん)努力いたし、図らずも法縁あって、皇円阿闍梨上人(こうえんあじゃりしょうにん)の大徳と察音住職の熱意を汲みとられ、岐阜市後藤喜久、咲子夫妻により一寄進下され、昭和41年阿闍梨大龍の両眼には寄進者咲子夫人の純金の指輪が、爪と牙には純銀が鋳込まれています。
富山県高岡市老子次右ヱ門氏の手により鋳造(ちゅうぞう)され、青銅雲龍縁起純金銀象眼の鐘と名付けられました。 (応声教院 H.Pより)
応声教院 由緒当山は、今より1,100余年前の斉衡2年(855)、比叡山の法主慈覚大師が、文徳天皇(55代)の勅願所(ちょくがんじょ)として創建された寺で天台宗天岳院と称しました。
その後、嘉応元年(1169)比叡山の皇円阿闍梨(こうえんあじゃり)が、弥勒菩薩の出世を待って、その教えを受けようとして、桜ヶ池に蛇身となり入定されました。その皇円阿闍梨上人が当院を宿とされた宿縁の寺であります。
後、承安5年皇円阿闍梨(こうえんあじゃり)の弟子、法然上人が浄土宗を開宗され、恩師皇円の徳を慕い、親しく桜ヶ池を訪れた帰り途、当院に立ち寄られ、数々の宝物を残されました。また、当山裏山にて七日七夜の念佛を唱え、師皇円の冥福を祈られ、東海念佛初開道場を開かれました。この遺構は山頭に法然塚として今も残されております。当山御本尊、歯吹阿弥陀如来(はふきあみだにょらい)はこの時に安置された稀有の御本尊で、霊験極めて顕著であります。
これより当山は、天台宗を浄土宗に、天岳院を應聲教院と改名され、名僧感西上人を開山として現在まで浄土宗の教えを伝えております。
皇円阿闍梨(こうえんあじゃり)菩提所、桜ヶ池奥之院、十二支辰巳霊場、水子供養の寺として、遠くは親鸞上人、熊ヶ谷蓮生坊(れいじょうほう)の来山をはじめとして、全国の名士、善男善女の参詣は四季を問わず信仰の霊地として、また心身の平安を求める慰安の場として訪れ、今日まで永い伝統を伝える東海の名刹であります。 (応声教院 H.Pより)
呑兵衛地蔵尊
日本で初めて 呑兵衛地蔵尊縁起
この呑兵衛地蔵様は焼津市出身のある娘さんの一寄進で、こよなくお酒を愛し、この世を去った父親を慕い、亡父と同じく故人となられた多くの呑兵衛供養のためにと、地蔵様建立を一念発起、三年目にして大願成就(たいがんじょうじゅ)、昭和51年11月23日に開眼供養(魂をいれること)が行われました。
地蔵様のご本体は、藤枝市の石彫家が、二トンの自然石を約7ヶ月の歳月を費やし、一心不乱、総手彫りにて完成しました。大きさは、等身大、左手に杯を持ち、胡坐(あぐら)をかき、泰然(たいぜん)としてお酒を嗜(たしな)む姿を、人呼んで呑兵衛地蔵さん!お堂はなんと大きな酒樽、各地を尋ね、やっと秩父市の某醸造家より六尺樽を譲受け、その樽を伏せ、杉皮葺きの丸屋根を乗せ、樽側面を入口とした、風流なたたずまいは、実に呑兵衛地蔵さんのお堂としてふさわしく、ぜひ参拝の上ご一見ください。
樽の大きさは、直径2m10、深さ2m40、中味は、31石5斗3升8合入り、1升瓶で3153本も入ります。お堂はなんと大きな酒樽、各地を尋ね、やっと秩父市の某醸造家より六尺樽を譲受け、その樽を伏せ、杉皮葺きの丸屋根を乗せ、樽側面を入口とした、風流なたたずまいは、実に呑兵衛地蔵さんのお堂としてふさわしく、ぜひ参拝の上ご一見ください。 (応声教院 H.Pより)
応声教院 本堂
応声教院 愛染堂
遠江十二支霊場(真言 オン・サンマヤ・サトバン)
辰巳歳 普賢菩薩普賢菩薩は、文殊と共に釈迦如来の脇侍として美しい顔立ちで像に乗っておられる「華厳経」には普賢の十大誓願として諸仏をうやまい、如来を称賛し、広く供養を修し、罪を懺悔し、功徳を悦び仏の説法を請い、仏の世に留まることを願い、常に学び、常に衆生に従い、これらの功徳をことごとく衆生に廻回する、とある。 御縁日毎月十二日 浄土宗 応声教院
愛染明王尊
今より千二百年前、聖武天皇の御時、行基菩薩の御作で一本の楠の木を伐って三体の尊像を創り海中へ流し、その流れに着いた所を祭地と定めたと伝えられており、東は鎌倉、西は吉野に。後の一体が遠州にと、日本三体の一つにして三眼六手を持つ御尊体です。桜ヶ池に龍身となられた皇圓阿闍梨が大願成就を祈願されたと伝われる明王様でもあります。良縁結びの守本尊として知られ、特に、染色、衣類関係業者の信仰厚く、商売繁盛、家内安全、身体健康等諸願成就の誠に霊験あらたかな御霊体です。十二年辰年にご開屏を迎えます。普賢菩薩
普賢菩薩は文殊と共に釈迦如来の脇侍として美しい顔立ちで像に乗っておられる。華厳経には普賢の十大誓願として諸仏を敬い、如来を称賛し、広く供養を修し罪を懺悔し、功徳を悦び仏の説法を請い仏の世に留まることを願い常に学び、常に衆生に廻回するとあり、私たちに智慧を授けてくれる菩薩様で、辰歳・巳歳のあまねく守護をしています。
塩の道
沿岸部から内陸部に向かって塩を運んだ道が全国にたくさんありました。
日本の代表的な塩の道のひとつに、静岡県牧之原市相良から掛川市を抜け、
新潟県糸魚川市へと続く「塩の道」があります。
その一部は「秋葉街道」とも呼ばれ、
秋葉神社への信仰の道としても栄えていました。
遠州七不思議「片葉の葦」
応声教院の南側には、遠州七不思議のひとつの「片葉の葦」があります。
「片葉の葦」は、葦の葉が茎の片側にしか伸びません。
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将 熊谷次郎直実が、
応声教院を参拝するため馬を松の木へ繋いでおいたところ、
馬が葦の葉の片方だけを全部食べたからと伝わります。
片葉の葦武蔵の国大里郡の熊谷直実(くまがいなおざね)は、鎌倉初期の武将として名高いが、かの有名な一の谷の戦に、退く平家の公達を呼び戻し、組み合の末、首かき切ってみると、我が子と同年ほどのうら若い武将、平敦盛でした。箙(えびら)には昨夜平家の陣中から聞こえてきた笛(青葉の笛)が差されており、世の無常を感じるところとなりました。数年後の建久三年、所領論争に久下直光に敗れたのを契機に出家を決意し、京都の源空(法然上人)の弟子となり、蓮生坊(れんじょうぼう)と号したことは世に知られるところです。
この熊谷直実が法然ゆかりの当院を訪れた時、法然上人から授けられた「袈裟」を松の枝(袈裟掛けの松)に掛け、下の小池で手を清めました。この時、袈裟に触れた葦が、念仏の功徳に感じて片葉が伸びなくなったと言われています。また、一説には、繋いでおいた直実の馬が片側の葉を食べてから、片葉の葦になったとも言われています。