八幡平城址「新野古城」(96.7m) 想慈院・静岡県御前崎市新野




八幡平城址「新野古城」(96.7m) 想慈院・静岡県御前崎市新野

静岡県御前崎市新野、

曹洞宗 想慈院の西方にそびえる標高100mほどの山稜が「八幡平城址」です。

八幡平城の詳細は不明ですが、この地の土豪である新野氏の居城だったと推定されています。

新野氏は室町時代中期から後期に舟ケ谷城(新野新城)を築きましたが、

それ以前よりあったこの城を詰城として維持したと考えられています。

このためこの山城は別名「新野古城」とも呼ばれています。

天正年間初期に武田勝頼によって、高天神城への軍道の抑えの城として改修されましたが

1581年(天正9年)に高天神城が落城するとともに廃城になったと考えられます。

現在城址には連続堀切や馬出しなどの遺構が残り、

武田氏独特の築城術を確認することができます

想慈院の広い駐車場には案内板が建てられハイキングコースとして整備されています。

想慈院

曹洞宗 想慈院(そうじいん)の駐車場より八幡平城跡へ

駐車場から道路を南西へ100m程進んだ右手に大手登城口があり、

想慈院の本堂左手方向に想慈院登城口(搦手口)があります。

八幡平の城跡 案内板

八幡平の城跡

八幡平の西南方尾根つづきにこの土地の領主浅野氏が城主であった舟ヶ谷の城山があるが、その詰城であったものを戦国時代即ち、天正年間初期(一五七八年頃)武田軍により高天神城への軍道のおさえとして改修されて現在見ることのできる遺構となった。山尾根を切る多くの堀切、二重の堀切や横掘は武田氏独特の建築手法であり、貴重な歴史的文化的遺産である。

御前崎市教育委員会 新野公民館

八幡平城跡 大手登り口

八幡平城は想慈院の西にある丘陵に築かれており、

現在は随所に案内板があり、ハイキングコースとしても整備されている。

ここからは舗装路を行かず右脇の登山道へと入る

堀切

主郭下の横掘

八幡平城は南西の主郭と北東の二郭で構成されています。

主郭は四方に伸びる尾根を堀切で遮断し、東側面に二段の横堀を設けているのが特徴

主郭から北へ堀切を隔てて二郭があるが、二郭も北に二重堀切、

西にも堀切があり、東側面に横堀を設けている。

八幡平城址(96.7m) 本郭跡

八幡平城址(96.7m) 本郭跡、

この平坦な地を八幡平と呼び城の名となっている。

八幡平城について

八幡平城の詳細は不明ですが、この地の土豪である新野氏の居城だったと推定されています。新野氏は室町時代中期から後期に舟ケ谷城(新野新城)を築きましたが、その後も詰城として維持されました。このため新野古城とも呼ばれます。天正年間初期に武田勝頼によって、高天神城への軍道の抑えの城として改修されましたが、1581年(天正9年)に高天神城が落城するとともに廃城になったと考えられます。現在城址には連続堀切や馬出しなどの遺構が残り、武田氏独特の築城術を確認することができます。想慈院の駐車場に案内板が建てられています。

八幡平の城跡

八幡平城跡は、新野地区篠ケ谷・有ケ谷にある 台地尾根上に築かれた平山城で、最高地点は標高 約105メートル、比高約65メートルです。その城域は、南北約600メートル、東西400メートルと広大で、南の「一の曲輪」と北の「二の曲輪」で構成されています。本曲輪と見 られる一の曲輪が「八幡平」と呼ばれていることが 名前の由来になっています。一の曲輪は、土塁が認められず、低い土居をもつ帯曲輪と堀切で守られています。二の曲輪は、自然地形をそのまま利 用した帯曲輪と堀切で守られています。また、武 田式築城法の特徴である二条堀切と横堀が見られ ることから、今川系新野氏によって築かれた城が、 後に武田氏によって高天神城とのつなぎの城とし て修築、再利用されたと考えられます。なお、今川系新野氏の城としては、南西側に隣 接する舟ケ谷の城山にもその伝承があることか ら、八幡平城跡は舟ケ谷の城山の詰の城として使 われた可能性があります。

今回は新野原方面まで尾根を縦断しました

歩く人も少なく道は荒れていましたが、

想慈院から周回する4km程度のハイキングコースとなっています。

篠ヶ谷調整池

想慈院へと戻る途中には「篠ヶ谷調整池」があり

水不足に悩まされてきた牧之原台地の様子を知ることが出来ます。

またすぐ近くには「新野水のめぐみ公園」があり、

上部はビオトープ、下部は芝生広場となっています。

蛍の観賞地として知られているそうです。

篠ヶ谷調整池

水不足に悩まされてきた大井川右岸地域
「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と唄われた大井川は、大井川用水ができるまでに主に島田市を含む地域(大井川左岸地域)の生活用水・産業に利用されてきましたが、牧之原台地西部である御前崎市を含む地域(大井川右岸地域)は大きな水源に恵まれなかったために多くのため池を造り、水不足に備える生活を余儀なくされていました。しかし、日照りが続けば干上がり、大井川の水を右岸地域まで利用することは地域一帯の悲願でした。この水不足を解消するため、1889年(明治22年)に掛川市の山崎千三郎氏が計画した「大井川側疎水工事計画」は大井川中流の島田市神尾付近に取水口を設けて牧之原台地をトンネルで貫き概ね掛川市北部~遠州灘付近の地域に導水するものでしたが太平洋戦争後まで計画は実現しませんでした。1847年(昭和22年)に着手し、1968年(昭和43年)に完成した国営大井川農業水利事業は疎水工事計画のアイディアが活用され、この地域にも大井川の水が安定して供給され山崎氏の計画から約80年の歳月を経て右岸地域の悲願が成就されました。この篠ヶ谷調整池は、1968年に完成した国営大井川農業利水事業から約40年が経過し、地域の都市化に伴う水利用の変化や、施設の老朽化に対応するために新たに1998年(平成11年)から開始された改修事業で、用水の効率的利用のために設置されることとなりました。調整池の工事は、2007年(平成19年)3月から堤体工事に着手し、関連する揚水機場・連絡水路の設置を行い2009年(平成21年)に全体施設が完成の運びとなり、御前崎市等南部の更なる発展に寄与するものです。

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