小梳神社(おぐしじんじゃ)・静岡県静岡市葵区紺屋町




小梳神社(おぐしじんじゃ)・静岡県静岡市葵区紺屋町

静岡県静岡市葵区紺屋町

静岡駅から北へと延びる呉服町通りに鎮座

周囲はビル群に囲まれた神社です

平安時代初期のころまでは少将井神社とも称されました

江戸時代には徳川家康公が駿府城に留まるにあたり、

徳川家代々の守り神を合祀し駿府城の守護神として尊崇されてきました

当初、小梳(おぐし)という地に創祀されたという

小梳の地は、後に東川辺と呼ばれるようになったが、

そこに駿府城が築城されという

その後、当社は、寛永八年(1631)に新谷町へ遷座され、

延宝三年(1675)に現在地へ遷座した

小梳神社 

徳川家康の幼少期、竹千代と呼ばれていた時に、人質として今川義元に対面する前にこの神社に立ち寄り、武運長久を祈願したとされている神社です。駿府城の守護神として尊崇され、長きにわたって徳川家の庇護を受けました。

拝殿

小梳神社

祭神
建速須佐之男命 奇稲田姫命
相殿
大己貴命 天照皇大神 金山彦命 猿田彦命
境内社
稲荷神社 祭神 豊受比売神
(開運の神としての信仰があり、入学達成・選挙当選等の祈願が多い)
宗像神社 祭神 多紀理姫命 市寸島姫命 多岐都姫命
(俗に出世弁天社と云われている)
由緒
当神社の創建は詳かでない。元の鎮座地は小梳と云い、後東川辺と改められた現在の県庁の東側の地である。
延喜式神名帳に「駿河国安倍郡小梳神社」とある。
諸郡神階帳に「正五位下安倍郡小楠神社。」と、又惣国風土記に「小梳公穀二百六十束、仮粟百十二丸、小梳神社所祭素盞(嗚)尊、奇稲田姫也、小梳後号東川辺、延喜式安倍郡小梳神社とあるは此社なり。」と記載されている。
大宝令の定めにより横田駅が設けられて以来、その守護神として信仰され、貞観の頃から祇園信仰が全国に拡まるに連れて、当神社は少将井神社とも云われるようになった。
この東川辺の地に駿府城が築かれて以来は、府城の守護神としての信仰も加わった。
特に徳川家康が幼時今川家の人質として当神社の傍に住居し、日夜武運長久を祈願し、やがて元和元年大阪夏の陣が終り天下を平定してこの駿府城に止まるにあたり、代々徳川家の守り神伝わる大巳貴命、天照大神二神を小梳神社に合祀し少将井五所大神宮と称した。元和元年九月三日林道春に命じてこの由を社講に識さしめ奉献したものが現存している。これよりさき、慶長十四年駿府城の城域拡張により、当神社はその郭内に入ったので駿河大納言は不敬を冐すをおそれ、且庶民参拝の便をはかって、寛永八年新谷町に仮宮を造って奉遷し、延宝三年現在の地に社殿を造営して遷宮した。
この造営の事にあたったのは城代松平右近太夫を始め町奉行大久保甚兵衛外、城番、番頭、一、二、三加番、目付其の他である。
翌延宝四年から隔年に神幸祭が行われた。
この神幸祭はぎおん祭といわれ、町奉行、与力、同心が警護にあたり、加番衆出し馬あり、駿府の町々は一番より四番まで組合を定め各町より屋台、台の物なと踟物を出し、「供奉の行列装束を粧い、引連なる踟物の結構は都山王神社の祭礼に彷彿たり。」と駿国雑誌に記載されている。
明治八年二月静岡県第四大区五ノ小区の郷社に列した。
明治九年と明治二十五年に静岡繁華街に大火があり、当神社も再度類焼の難に遭ったが復興し、明治四十一年一月神饌幣帛供進神社に指定され、同年七月県社に昇格した。
昭和十五年一月静岡市大火により社殿工作物悉く失い、同年建築した仮社殿も昭和二十年六月二十日戦災により再度炎上した。
以後氏子関係者一同の努力により、本殿、祝詞殿中殿、拝殿、境内社、社務所、倉庫等の復興建築を完了した。
昭和三十七年三月七日、北白川神宮祭主、坊城神宮大宮司、佐々木神社本庁統理其の他の正式参拝があった。
駿河国三大地誌と高く評価されている「駿河国新風土記」の著者新庄道雄の碑が当神社の境内にあり、静岡市文化財に指定されている。
昭和二十一年七月三十一日宗教法人令により届出をなし、昭和二十七年七月二十三日宗教法人法に依り宗教法人「小梳神社」設立の登記をした。
静岡県神社庁神社等級規定三級社である。

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