第42代 文武天皇(檜隈安古岡上陵)・奈良県高市郡明日香村大字栗原




第42代 文武天皇(檜隈安古岡上陵)・奈良県高市郡明日香村大字栗原

奈良県高市郡明日香村大字栗原

第42代 文武天皇(もんむてんのう)

檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)

天武天皇と持統天皇の孫にあたり、藤原京で即位し、

大宝律令を制定した文武天皇がまつられています。

高松塚古墳の南東方向に位置します。

文武天皇陵

陵名を檜隈安古岡上陵と称する。文武天皇は追尊 岡宮天皇(草壁王子)の王子で慶雲4年(707年)6月に崩御され11月に飛鳥岡で火葬の上、この陵に葬られたことが「続日本紀」にみられる。

第42代 文武天皇

諱  珂瑠、軽

異称 倭根子豊祖父天皇・天之眞宗豊祖父天皇

誕生 683年

崩御 707年7月18日

在位 697年8月22日 – 707年7月18日

文武天皇元年8月1日 – 慶雲4年6月15日

続柄 (父)草壁皇子(母)阿陪皇女(元明天皇)

第42代天皇(在位697~707)。名は珂瑠(かる)。天武(てんむ)天皇の孫。草壁(くさかべ)皇子の第2子。母は天智(てんじ)天皇の娘阿閇(あへ)皇女(のち元明(げんめい)天皇)。697年2月立太子、同年8月即位、藤原不比等(ふひと)の娘宮子(みやこ)を夫人とする。ときに15歳。治世10年間のうちの前半は、祖母にあたる持統太上(じとうたいじょう)天皇が後見して政務一般を総覧したが、この時期には刑部(おさかべ)親王、藤原不比等らによって律令編纂(りつりょうへんさん)の大事業がなされた。やがて令十一巻、律六巻が完成して、701年(大宝1)には年号を大宝(たいほう)と建元し、令・律は同年から翌年にかけて施行された。これがすなわち大宝律令であり、ここに名実ともに律令国家体制は確立したのである。しかし治世の後半には災害や飢疫の流行などによる世情不安から、いわゆる慶雲(けいうん)の諸改革を断行して、早くも律令制を軌道修正した。また平城京遷都を望んだが果たせず、25歳の若さで世を去った。御陵は奈良県高市(たかいち)郡明日香(あすか)村の檜隈(ひのくま)安古(あこ)山陵。

文武天皇(身狹桃花鳥坂上陵)

代数
第42代
天皇名
文武天皇(もんむてんのう)
御父
草壁皇子
御母
元明天皇
御陵名
檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)
陵形
山形
所在地
奈良県高市郡明日香村大字栗原

  • このエントリーをはてなブックマークに追加