日葉酢媛命(垂仁天皇皇后)狭城楯列池上陵・狹木之寺間陵




日葉酢媛命(垂仁天皇皇后)狭城楯列池上陵・狹木之寺間陵

奈良県奈良市山陵町

第11代 垂仁天皇(すいにんてんのう)2番目の皇后 日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)

「日本書紀では日葉酢媛命の他に日葉酢根命・日葉洲媛命」

「古事記では氷羽州比売命・比婆須比売命」

狹木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)

遺跡名は「佐紀陵山古墳」で、墳丘長207メートルの前方後円墳。

垂仁32年7月没時には,野見宿禰の進言により殉死の慣習をやめ、

かわりに埴輪を立てたという起源説話が伝えられ、これが埴輪の起源とも伝わる。

日葉酢媛命陵(佐紀陵山古墳)は、奈良市最大の古墳群である「佐紀盾列古墳群」の

中心的位置といってもよい場所にあり、「孝謙天皇陵」「成務天皇陵」「瓢箪山古墳」

などに囲まれる形で位置する古墳です。

古墳の長さ206m、竪穴石室は長さ8.6m、幅1m、高さ11.5m

4世紀後半から末ごろの築造と考えられている。

日葉酢媛命

日葉酢媛命(ひばすひめのみこと、生年不詳 – 垂仁天皇32年7月6日)は、垂仁天皇の2番目の皇后。父は丹波道主王、母は丹波之河上之麻須郎女。垂仁天皇との間に景行天皇のほか2皇子・2皇女を産む。「日葉酢媛」は『日本書紀』での記述であるが、同書は「日葉酢根命」、「日葉洲媛命」にも作り、また『古事記』は「氷羽州比売命」、「比婆須比売命」に作る。

『日本書紀』によれば、垂仁天皇の皇后狭穂姫命が同天皇5年に薨じた後、その遺志により、同15年2月甲子(10日)に丹波(後の丹後国を含む広義の丹波国)から妹たちとともに後宮に迎えられた。同年8月壬午(1日)に皇后に立てられた。垂仁天皇32年7月己卯(6日)に薨じた。その葬儀に際して、それまで行われていた殉死を悪習と嘆じていた天皇が群卿に葬儀の方法を問うと、野見宿禰が生きた人間の代わりに埴輪を埋納するように進言したため、その陵墓に初めて人や馬に見立てた埴輪が埋納され、以後も踏襲されるようになったという。『古事記』では天皇崩御後も生きており、多遅摩毛理(田道間守)から時じくの香の木の実の半分を受け取ったとされる。 Wikipedia

日葉酢媛命(第11代 垂仁天皇 皇后)

別名

日葉酢根命(日本書紀)
日葉洲媛命(日本書紀)
氷羽州比売命(古事記)
比婆須比売命(古事記)

誕生 生年不明

崩御 垂仁天皇32年7月6日

続柄 (配偶者)垂仁天皇(父)丹波道主王(母)丹波之河上之麻須郎女

『古事記』『日本書紀』によれば,垂仁天皇の皇后。丹波道主(たにはのちぬしとも)王の長女。垂仁天皇皇后の狭穂姫の進言によって召し入れられ,狭穂姫の死後,皇后となる。景行天皇の生母。『日本書紀』垂仁32年の薨去記事によれば,天皇が媛の葬儀に際して殉死の風習に心を痛め,他の方法を群臣に問うたところ,野見宿禰が出雲の土部100人と共に土で人馬などを造り,生きた人間に代えてそれらを埋めるように申し上げた。天皇はこれを喜び,それを墓に立て埴輪と名付け,これ以後葬儀には必ず埴輪を使い,人を殉死させてはならないと詔したという。『古事記』では,この大后のとき,石祝作(石棺や石室を作る部)と土師部(土器製作や葬礼を担当する部)を定めたとする。陵墓に関連の深い皇后であったらしい。埋葬地は,狭木の寺間の陵(奈良市山陵町御陵前か)と伝えられる。

日葉酢媛命狹木之寺間陵

配偶者
第11代 垂仁天皇(ちゅうあいてんのう)皇后
御父
丹波道主王
御母
丹波之河上之麻須郎女
御陵名

狹木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)
陵形
前方後円
所在地
奈良県奈良市山陵町

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