第19代 允恭天皇(惠我長野北陵)・大阪府藤井寺市国府




第19代 允恭天皇(惠我長野北陵)・大阪府藤井寺市国府

大阪府藤井寺市国府1丁目

第19代 允恭天皇陵(いんぎょうてんのう)

恵我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)・遺跡名「市ノ山古墳(市野山古墳)

墳丘長228メートルの前方後円墳です。

古墳は世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」構成資産とされています。

また同じく、大阪府藤井寺市津堂にある「津堂城山古墳」は

宮内庁指定の「藤井寺陵墓参考地」として、允恭天皇が被葬候補者に想定されています。

允恭天皇は、中国の歴史書「宋書」・「梁書」に記される

倭の五王の中で、「倭王 済」と考えられている天皇です。

允恭天皇陵(市野山)古墳

時代    古墳時代 中期後葉

古墳の形  前方後円墳

墳丘の全長 230m

出土品   円筒埴輪・形象埴輪・須恵器

墳丘は3段に築かれ、両側のくびれ部に造出しが設けられます。墓山古墳ときわめて近い平面形で墳丘が造られており、相似形に企画された可能性が高いです。建造時は二重の周郷でした。濠から円筒埴輪のほか、様々な形象埴輪が出土しています。また内堤の盛土からは5世紀中頃の須恵器が出土し、墳丘の築造時期の一端を示しています。周囲には多数の倍塚が配されています。

第19代 允恭天皇

別名 日本書紀 雄朝津間稚子宿禰天皇・雄朝津間稚子宿禰皇子

男浅津間若子宿禰命(おあさづまわくごのすくねのみこと)(古事記)

誕生 仁徳天皇64年?

崩御 允恭天皇42年1月14日

在位 允恭天皇元年12月 – 同42年1月14日

続柄 (父)仁徳天皇(母)磐之媛命

5世紀前半に実在したと見られる天皇。大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の第四皇子。母は葛城襲津彦の女の磐之媛命(いわのひめのみこと)。去来穂別天皇(履中天皇)、瑞歯別天皇(反正天皇)の同母弟である。

瑞歯別天皇が即位5年1月に皇太子を定めずして崩御したため、群臣の相談により天皇(大王)に推挙された。病気を理由に再三辞退して空位が続いたが、翌年12月に妻の忍坂大中姫の強い要請を受け即位。即位4年9月、諸氏族の氏姓の乱れを正すため、飛鳥甘樫丘にて盟神探湯(くがたち)を実施する。即位5年7月、玉田宿禰(葛城襲津彦の孫)の叛意が露顕、これを誅殺する。

即位7年12月、皇后の妹の衣通郎姫を入内させるが、皇后の不興を買う。即位23年、長男の木梨軽皇子を皇太子とするが、翌年に同母妹の軽大娘皇女との近親相姦が発覚。即位42年1月、崩御。『古事記』では甲午年1月15日とされる。木梨軽皇子は群臣の支持を得られず粛清され、弟の穴穂皇子が即位した(安康天皇)。陵所は惠我長野北陵(市ノ山古墳)。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加