神原遺跡 塩の道・静岡県浜松市天竜区水窪町




神原遺跡 塩の道・静岡県浜松市天竜区水窪町

水窪情報サイト
https://www.misakubo.net/観光情報/史跡-遺跡/

天竜川の肥沃な河岸段丘が広がる

静岡県天竜区水窪町には太古の人々の生活のあとが数多く残される

遺跡が数多く発見されています。

静岡県御前崎から長野県飯田を経て、塩尻に至る

有名な秋葉街道(信州街道)通称「塩の道」の

中間点である水窪は宿場町として大変栄えました。

宿場町の名残を残す佇まい

塩の道

古代から遠州と信州を結んだ道、それが「塩の道」です。
遠く昔には信州に産する黒曜石が狩猟用の鏃(やじり)として遠州に、
そして山地居住者が必要とする塩などの海産物が信州に運ばれ交易が行われていました。
これがいわゆる塩の道であり人の命の道でもあったのです。
この道は、後に秋葉街道(信州街道)とも呼ばれ、延々200キロの長い道で、
そのほぼ中間地点がこの水窪町にあたり宿場町として栄えました。

塩の道を語る上で欠かせないのが宗良親王(むねながしんのう)の存在です。

後醍醐天皇の第五皇子である宗良親王は南北朝時代、

南朝の方として遠州井伊谷(引佐町)に身をおきましたが、

信州大河原(現大鹿村)に入り、以後37年間、この地を拠点としました

当時の遠信古道沿線は、南朝方の豪族が勢力を保っていました。

信州の諏訪氏・香坂氏、遠州の奥山氏・天野氏・井伊氏などです。

拠点となった大河原は伊那谷に属し、南に下れば井伊氏から東海地方、

北上すると諏訪氏や関東へと通じる位置にあるため、

劣勢が続く南朝方にとっては最重要拠点である今の秋葉街道(別名「南朝の道」)には

各地で破れた南朝方の武士達が逃げ込む事も多かったと言われています。

もう一点、武田信玄が切り拓いた軍用路としての側面も考えられます。

元亀三年(1572)武田信玄は遠江・三河を攻略するために軍を三方に分け、

自身は小川路峠から青崩峠を越えて天野氏の犬居城に入りました。

信玄があえて青崩峠越えを選んだのは、道沿いに大きな勢力がなく、

遠山氏・奥山氏・天野氏を押さえれば容易に通過できるメリットがあったからでしょう。

江戸時代になって秋葉街道や中馬街道が信仰路・通商路として栄えた背景には、

こうした背景があると考えられます。

宿場町から坂を登ると段丘面(だんきゅうめん)にあたる拓けた土地

水窪小学校がある辺りは神原遺跡として数多くの遺跡が見つかったそうです。

神原遺跡

水窪小学校の付近から多数の石鏃や土器片や
鎌倉時代のものと考えられる蔵骨器 が出土されました。
学校用地であった為に数回の建築、造成工事により
遺跡はほとんど破壊されてしまいました。
河岸段丘地の絶好の場所として日当たり水利もよかったので
自然採取時代の生活には極めて適地であったことは今も容易に想像されます。

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