第85代 仲恭天皇(九條陵)・京都府京都市伏見区深草本寺山町




第85代 仲恭天皇(九條陵)・京都府京都市伏見区深草本寺山町

天皇陵 仲恭天皇 九條陵
http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/085/index.html

京都市伏見区深草本寺山町

東福寺の東、泉涌寺の南にある山沿いの住宅地にあります。

住宅地の中に御陵への入り口

敷地内に皇后聖子(崇徳天皇皇后)月輪南陵もあります。

第85代 仲恭天皇

御名
懐成親王(カネナリ)
異称
九条廃帝
生没年
建保6(1218)年~天福2(1234)年
在位
承久3(1221)年
続柄
(父)順徳天皇、(母)皇后九条立子

わずか3歳で践祚。
これは祖父後鳥羽上皇が鎌倉幕府の討幕計画を画策し、
父順徳天皇もこれに加わったための懐成親王への譲位であった。
(天皇の立場では色々と不都合があるため)
しかし後鳥羽上皇軍は幕府執権北条泰時に敗れ、
後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡に、
また天皇の叔父の土御門上皇は加担していなかったが自ら望んで土佐に流された。
(承久の乱)
祖父や父の配流に伴い、順徳上皇系の天皇は廃位、
土御門上皇系の茂仁親王(後堀河天皇)が即位した。
もちろん、天皇は幼少で政治的な判断は皆無に等しかったが、
幕府の意向で廃位となったのである。
在位78日、上皇年数13年、17歳で崩御した。(在位期間は歴代最短)

わずか4才でせんそした帝は、
「承久の乱」の勃発により鎌倉幕府により強制的に退位させられた。
1年に満たない在位期間である。
正確には在位81日。承久の乱直前に即位し、敗戦後退位させられた。
即位式も大嘗祭も行った記録がないことから「九条廃帝」とか「半帝」とか称せられ、
長く天皇とはみとめられていなかった。
北畠親房(きたばたけちかふさ)も「神皇正統記」(じんのうしょうとうき)で
「廃帝」と断じているが、明治政府は第85代天皇として歴代天皇に加えた。
17才で病死している。
日本天皇史上、「廃帝」とか「半帝」とか呼ばれる天皇が3人いる。
淡海廃帝(39代 弘文天皇)、淡路廃帝(47代 淳仁天皇)、
九条廃帝(85代 仲恭天皇)である。
いずれも文献に即位の記事が見えなかったり、
あまりにも短い在位期間だったりするため、明治期までは公式な天皇と見なされていなかった。
しかし幕末から明治に掛けての国学高揚の気を受けて、
明治政府が公式に歴代天皇とみなしたのである。
明治維新後に、この3人はそれぞれ弘文・淳仁・仲恭と追号され、歴代天皇に加えられた。

仲恭天皇(九條陵)

代数
第85代
天皇名
仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)
御父
順徳天皇
御母
皇后立子
御陵名
九條陵(くじょうのみささぎ)
陵形
円丘
所在地
京都府京都市伏見区深草本寺山町

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