川原寺跡(かわらでらあと)




川原寺跡(かわらでらあと)

川原寺 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/川原寺

石舞台遺跡からすこし歩たところ「橘寺」のすぐ向かいに

発掘調査の後が分かるように川原寺跡が保存されています。

旧川原寺の中金堂跡地には、現在「弘福寺(ぐふくじ)」が建っています。

川原寺跡(かわらでらあと)

川原寺は、飛鳥寺(法興寺)、薬師寺、大官大寺(大安寺)と並ぶ
飛鳥の四大寺に数えられ、7世紀半ばの天智天皇の時代に建立されたもの
と思われるが、正史『日本書紀』にはこの寺の創建に関する記述がない。
そのため創建の時期や事情については長年議論され、さまざまな説があり、
「謎の大寺」とも言われている。
平城京遷都とともに他の三大寺(飛鳥寺、薬師寺、大官大寺)は
その本拠を平城京へ移したが、川原寺は移転せず、飛鳥の地にとどまった。
平安時代最末期の建久2年(1191年)の焼失後は歴史の表舞台から姿を消し、
発掘された瓦やセン仏(せんぶつ、土で作り焼成した仏像)、
堂塔の礎石以外には往時をしのばせるものはない。
Wikipedia より

史跡 川原寺跡

川原寺は、法名を弘福寺(ぐふくじ)ともいわれている。
どの創建年代については不明であるが、
『日本書紀』桓武天皇2年3月の条に川原寺で経を写すという記事があることや、
伽藍配置や瓦の文様が天智天皇に関連する大津宮の南滋賀廃寺や
太宰府の観世音寺と類似することから、天智天皇の時代(662~671)に
斉明天皇の冥福を祈って建てられたものと考えられる。

昭和32年(1957)33年(1958)の発掘調査の結果、
中金堂(現弘福寺の場所)の前には、東に塔、西に西金堂が建ち、
中門からでた回廊がこれらを囲むようにして中金堂へとつながっていることが判明した。
また、中金堂の北には講堂があり、これを取り囲むように僧坊が3面にある。
川原寺で使われていた複弁八弁蓮華文軒丸瓦は川原寺式軒瓦(のきがわら)と呼ばれ、
天武天皇の時代には近畿・東海地域の古代寺院に多く見られ、
壬申の乱で功績のあった氏族の寺院と関係のあったものと考えれている。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加