掛川城・静岡県掛川市掛川




掛川城・静岡県掛川市掛川

掛川城 – Wikipedia

掛川城は文明年間(1469年~1487年)に、

駿河の守護大名・今川義忠が、重臣の朝比奈泰煕に命じて築城したと伝えられています。

当時の城は、掛川城から東に500mほどのところにある天王山にあり、

現在では掛川古城と呼ばれています。

遠江における今川氏の勢力拡大に伴い、掛川古城では手狭になったこともあり、

1512年(永正9年)から1513年(永正10年)頃に現在の位置(竜頭山)に

あらたに掛川城が築かれました。

590年(天正18年)に家康が東海から関東に移封されると、

豊臣秀吉の直臣であった山内一豊が5万1千石(のち5万9千石)で入城しています。

一豊は掛川城の大幅な拡張を実施し、天守を築くなど近世城郭としての体裁を整えました。

現在見られる城郭構造の基本的な部分はこのときのものです。

江戸時代後期には太田道灌の子孫である太田氏の居城として栄えました。

「東海の名城」とも謳われた掛川城ですが、幕末の1854年(安政元年)末に、

東海地方一帯を大地震が襲い(安政東海地震)、天守を含む大半の建物が損壊し、

政務所である二ノ丸御殿や、太鼓櫓、蕗の門などの一部をのぞき、

再建されることなく明治維新を迎え、1869年(明治2年)に廃城となりました。

掛川城大手門(復元)

掛川城大手門の復元について

この門は掛川城の城内に入る最初の門として天守閣と共に掛川城の威厳を示すに相応しい最大の門です。

天正十八年(1590)より慶長五年(1600)まで在城した山内一豊が中町に開かれた松尾口の大手筋を連雀町に移して大手郭を造り、その正門として設けたものです。建物は楼門造りの櫓門で間口は七間(約十二・七米)、奥行は三間(約五・四米)、棟までの高さは三尺五寸(約十一・六米)、二階は漆喰塗篭造りで格子窓付の門櫓をおき、庇屋根を付けています。一階の中央には一間半両開き(巾約ニ・四米、高さ約四・三米)の門扉、左側に一間(巾約一・ニ米、高さ約ニ・ニ米)片開きの通用口の潜り戸を設けています。鏡柱は二尺二寸(約六六糎)に一尺五寸(約四五糎)もあり、冠木、梁、垂木等も総て大きな木材を用いた壮大な造りです。冠木下の高さが十四尺六寸(約四・四米)もあるのは乗馬のままで通行出来るためです。嘉永の地震(1854)で倒壊し安政五年に再建されましたが、明治になって廃城になり民間に払い下げられ火災に遭い焼失しました。元の位置は連雀町裏の堀を渡ったところ(交差点南、道路表示部分)で、区画整理事業により基礎の根固石を発掘調査し規模を確認しましたが、元の位置では道路と家屋に支障を来たし、止むなく五十米北側に創建当時の姿に復元しました。
この発掘で門を囲む桝型の築地と共に番所の遺構も発見され、移築保存されていた大手門番所を旧地と同じ位置関係に全体的に復元しました。
大手門から見る天守が一番美しいといわれます。この付近から大手門と共に天守をご観賞ください。
掛川市

掛川城大手門礎石根固め石

掛川城大手門は、二層式の櫓門(楼門)でした。大きくて重量のある門ですから、傾いたりしないよう基礎工事に工夫が凝らされていました。
これが、平成5年(1993)の発掘調査で発見された、門の基礎部分「礎石根固め石」12個の内の一つです。直径2m深さ1m50cmくらいの大きな穴に、40cm前後の河原石を円形に4~5段積み重ね、その上に門柱の礎石が置かれていました。
この根固め石は、新しく作られた道路に現地保存できないので、そのままの状態で取り上げました。

掛川城大手門番所(復元)

掛川城大手門番所

大手門番所は、城の正門である大手門の内側に建てられ、城内に出入する者の監視や警備をする役人の詰所です。
嘉永七年(一八五四)の大地震で倒壊後、安政六年(一八五九)に再建されたのが現在の建物です。
明治初年、掛川藩の廃藩に際し、元静岡藩士谷庄右衛門が居宅用として譲り受け、別の場所に移築しましたが、昭和五十三年(一九七八)に谷家より市へ寄贈されました。
大手門に付属した番所が現存するのは全国的にも珍しく、昭和五十五年(一九八〇)、市の文化財に指定されました。
発掘調査により掛川城大手門と番所の位置が正保年間頃(一六四四~一六四七)に描かれた正保城絵図のとおりであることが明らかになったので、平成七年(一九九五)周辺の区画整理により、本来の位置から約五十メートル北に大手門を復元することにともない、それに合わせて番所を配置し、現在地に移築・復元しました。

三光稲荷神社

三光稲荷御由来

三光稲荷は、名馬の誉れの出世で有名な山内一豊公が掛川城主として文禄年間に城と城下町の大改築を行われたが、丁度この時期に豊臣秀吉の命で伏見桃山城の築城に加わった御縁で大手郭と大手厩の鎮守として伏見稲荷を勧請されました。
三光稲荷の由来は南北朝(吉野朝)時代のはじめの延元元年、後醍醐天皇が京都の花園院から吉野へ御幸をされる十二月二一日の深夜暗闇から難渋され途中伏見にさしかかり稲荷大社の御前で、
ぬばたまの くらき闇路に 迷うなり
われにかさなん みつのともし火(三の光)
と、御製を詠まれ、道中の安全と神助を祈願すると不思議に明るい一群の雲が現れ御幸の道を照らして無事に大和へ導かれたという故事があり伏見大社の本殿の脇には御製の碑が、吉野山金峯山には「導稲荷」があり東京新宿三光町の花園神社(三光稲荷)は吉野より勧請されたといわれこうした御利益から大手厩の構内にお祀りされました。

懸河旧址(掛川城の松尾池跡)

懸河旧址

東から流れてきた逆川が城山に当たり、川は深い淵となり崖をつくった。鎌倉時代から懸河と呼ばれていたこの場所が掛川の地名の由来となった。江戸時代に、掛川城の歴代の城主が記念として榜示を立てた場所である。

(『掛川誌稿』をもとに作成)

四足門(復元)

四足門(よつあしもん)

調査では、門の跡は見つかりませんでしたが、正保城絵図(しょうほしろえず)を元に復元されました。門の内側には、入城者(にゅうじょうしゃ)を調べる番所(ばんしょ)がありました。本丸に通じる重要な門でした。

掛川城主要部模型

この模型は、正保元年(1644)幕府が諸大名に命じて提出させた城絵図と発掘調査結果を基本資料として、150分の1の縮尺で製作されました。塩櫓(しおやぐら)・銭櫓(ぜにやぐら)のあった腰曲輪(こしぐるわ)や、内堀の松尾池(まつおいけ)・乾堀(いぬいぼり)は、削り取られたり、埋め立てられたりして現在目にすることはできませんが、模型ではこれらの曲輪や堀を含めた正保年間(1644〜1647)頃の最盛期の掛川城の主要部が示されています。模型の素材は、風雨、日光などの屋外での自然条件下でも耐久性が高い有田製磁器が用いられています。

三日月堀(みかづきぼり)

本丸門(ほんまるもん)の前面に配置された三日月状の堀です。深さは8mありました。調査では、堀の南側から石垣が見つかりました。その下からは、柱穴(ちゅうけつ)が並んで見つかりました。

十露盤堀

十露盤堀(そろばんぼり)

本丸を囲む重要な堀です。十露盤堀という名称の由来ははっきりしませんが、水がたまった部分がそろばんの箱のように見えることが、その由来と考えられます。

掛川城の発掘調査

平成4年(1992)から平成5年までの発掘調査によって、それまで知られかった地下に眠る戦国時代から江戸時代の掛川城が再びその姿を現しました。

城の出入口である本丸門の前面には、十露盤堀・三日月堀:内堀(松尾池)の3つの深い水堀によって厳重に防御されていました。本丸から天守閣への登城路は、敵の侵入に備え何度も折り曲げ登りにくくしてあります。堀や登城路の工夫は軍事施設としての城づくりと言えます。

本丸では明確な建物跡はわかりませんでしたが、柱穴・礎石や、便所として使われた素堀りの穴も見つかりました。日常生活に使われた茶碗、珍重された中国製の陶磁器、茶道に使われた天目茶碗などが本丸や堀から見つかりました。軍事施設としてだけではなく、生活の場としても使われていたことがわかります。

戦国時代には、堀・土塁とともに石垣が築かれ、軍事機能が高められていましたが、江戸時代中頃になると堀の一部を埋め立て御殿がつくられ、しだいに領国を治める役所としての機能に重点が置かれるようになりました。

掛川城公園

掛川城は、文明年間(1469~1486)頃今川氏の家臣が、掛川古城を築いたことに始まります。永正10年(1513)頃に現在の位置に移り、今川氏の遠江支配の拠点となりました。

永禄12年(1569)徳川家康がここに立てこもった今川氏真を攻め、長期にわたる攻防の末、掛川城は開城しました。家康の支配下に入った掛川城は、甲斐武田氏の侵攻を防ぐ拠点になりました。

天正18年(1590)豊臣秀吉は、天下統一を成し遂げ、脅威であった徳川家康の領地を関東に移しました。さらに、家康の旧領地に秀吉配下の大名を配置し、掛川城には山内一豊が入りました。

一豊は大規模な地域の拡張を行い近世城郭として整備し、この時初めて天守閣をつくりました。

その後、掛川城は、松平家・大田家など徳川譜代の大名11家26代の居城として、明治維新まで続きました。

一豊は大規模な地域の拡張を行い近世城郭として整備し、この時初めて天守閣をつくりました。

その後、掛川城は、松平家・大田家など徳川譜代の大名11家26代の居城として、明治維新まで続きました。

掛川城周辺マップ

太鼓櫓

太鼓櫓

正保城絵図では、荒和布櫓(あらめ)と呼ばれる見張りの櫓がありました。今ある建物は、嘉永7年(1854)の大地震以後に建てられた太鼓櫓です。時刻を知らせる太鼓を置いていた櫓で、何回かの移転の末、昭和30年(1955)に三の丸から移築されました。

本丸跡(ほんまるあと)

城の主要部で、藩主の住まいである本丸御殿がありました。調査では、建物跡はわかりませんでしたが、柱穴や礎石が見つかりました。城がつくられる以前は、墓地であったことがわかりました。

掛川城の天守の歴史

掛川城に天守を築いたのは、1590年(天正18年)に徳川家康が関東に移封したことに伴って入城した山内一豊です。
一豊はこのときに3重4階の層塔型天守を築きましたが、この天守は1604年(慶長9年)に起きた地震で大破しています。

「関ケ原の戦い」の後、一豊は土佐一国を与えられて高知城に移転したため、その後は譜代大名を中心に城主が頻繁に交代していますが、天守が再建されたのは1621年(元和7年)のことで、松平定綱の時代です。

以降、何度か城の修築も行われたそうですが、1854年(嘉永7年)に起きた、いわゆる「安政の大地震(安政東海地震)」によって天守を含む大半の建物が倒壊しています。

それからは天守は再建されませんでしたが、1994年(平成6年)4月に日本初の木造復元天守として再建されています。
この再建では市民や地元企業などから9億6000万円の募金が集まったそうです(うち、5億円は白木ハナヱさん個人による)。
建設には約11億円かかっています。

なお、いちおう多くの書籍などでは「復元天守」として分類されていますが、その外観は1621年(元和7年)に再建された天守ではなく、山内一豊が築いた初代天守を想定しており、しかも絵図などの資料が残っていないため、一豊が掛川城の天守と意匠をあわせて建てさせたとされる高知城の天守を参考にしています。
そのため「復興天守」と紹介されることもあります。

掛川城天守閣(かけがわじょうてんしゅかく)

天正19年(1591)から慶長元年(1596)にかけ、山内一豊によって掛川城に初めて天守閣がつくられました。しかし、嘉永7年(1854)の大地震で倒壊し、幕末の混乱の中取り壊されました。
平成5年(1993)、城絵図や古記録を元に木造により復元され、140年ぶりに再建されました。
天守閣は、外観三層(がいかんさんそう)、内部四階から成ります。六間×五間(約12m×10m)の天守閣本体は、決して大きなものではありませんが、東西に張り出し部を設けたり、入口に付け櫓を設けたりして外観を大きく複雑に見せています。

天守丸(てんしゅまる)

天正18年(1590)山内一豊が入城する以前は、本丸として使われていました。一豊によって城域(じょういき)が拡張されると、天守閣を配置する独立した曲輪になりました。

霧吹き井戸(きりふきいど)

永禄12年(1569)徳川家康は、今川氏真の立てこもる掛川城を攻めました。この時、井戸から立ち込めた霧が城をつつみ、家康軍の攻撃から城を守ったという伝説があります。

掛川城天守閣の構造

天守
瓦葺、3層、内部4階(地上2階、塔屋2階)
外部白漆喰塗籠、4階出入口引分け戸と廻縁・高欄は黒塗。
内部壁嵌板、4階は貼付壁、格天井
棟高石垣上端より53.4尺(16.18m)
付櫓
瓦葺、1層1階、外部白漆喰塗籠、内部壁嵌板、一部漆喰真壁
棟高石垣上端より18.75尺(5.68m)
総床面積
92.25坪(304.96m2)

二の丸御殿

掛川城二の丸御殿は全国でも4箇所の現存城郭御殿のうちの一つ

なかでも二の丸御殿が残っているのは二条城と掛川城のみです。

(残りの高知城と川越城は本丸御殿が現存しています)

現在の二の丸御殿は、1854年(嘉永7年)に起きた

東海大地震によって倒壊したあとに、

そのときの藩主であった太田資功が再建したものです。

明治に至るまで、掛川藩の政務所として使われました。

掛川城御殿(かけがわじょうごてん)

御殿は、儀式・公式対面などの藩の公的式典の場、藩政の中心となる諸役所(しょやくしょ)と、城主の公邸が連結した建物です。書院造と呼ばれる建築様式で、畳を敷きつめた多くの室(しつ)が連なり、各室は襖(ふすま)によって仕切られています。文久元年(1861)に再建されたものですが、現存する城郭内の御殿としては、京都二条城など全国でも数カ所にしかない貴重なものです。明治2年(1869)の廃城後は、学校、市庁舎などに転用されましたが、昭和47年(1972)から昭和50年の3年間にわたって保存修理され、国の重要文化財に指定されました。

二ノ丸御殿の構造

木造瓦葺平屋

外部
下見板張り、漆喰真壁
内部
諸役所中塗、御書院黄色壁塗、小書院白漆喰塗
総床面積
287坪(947m2)
創建当時 330坪(1,091m2)

二の丸美術館

二の丸美術館は、掛川市出身の故木下満男氏から

たばこ道具、刀装具、書画などの美術工芸品、

約2000点の寄贈を受け、開館した美術館です。

細密工芸品を主とする木下コレクションと、

近代日本画を収集した鈴木コレクションを中心に展示されています。

美術館のとなりに二の丸御殿の勝手台所にあった井戸が残っています。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加