徳山城跡(とくやまじょう)無双連山・静岡県榛原郡川根本町文沢
徳山城址は南北朝時代に南朝側に組みした
在地の豪族「土岐氏」によって築かれた山城です
同じく南朝側の安倍城主 狩野介貞長とともに、
北朝側の今川範氏と戦いました。
陥落してからは土岐氏は今川氏に属し、この地を治めたと言われています。
安倍川と大井川の分水嶺である標高1083mの無双連山(むそれやま)の
山頂付近に築かれた城で、南北に屏風のように連なる山嶺に数多くの遺構が残ります。
無双連山 全景
無双連山へは川根町笹間からのルートもあるようですが、
中川根町の徳山から文沢林道を経て本城林道を経由して登るルートが一般的
城址までは登山道を登ります
蔵屋敷
山頂部まで来ると蔵屋敷跡
広く無い尾根ですが人工的に平してあり歩きやすい
鍛冶屋敷
無双連山(1083.3m)山頂
陣屋平
反射板(無線電波塔)
反射板前は開けており展望スポットになっています
本城山(1090m)山頂
無双連山は別名 本城山とも呼ばれ、
反射板裏にある最高所には 立派な登頂記念碑がある。
空壕
細い尾根に残る「空壕」、ここを境に本城と陣屋平を隔ている
門址
徳山城址
殿屋敷(本丸)
帯郭
帯郭から続く幅2mの土塁の下に腰郭
徳山城址見取図
徳山城址見取図
殿屋敷から蔵屋敷までを無双連山(むそれやま)と言い、3つのピークを持ち、長さ約800mの山嶺をなし、城址は壕をへだてて、本城と陣屋平に城郭がわかれている。陣屋平一帯は、開発された為と本城ナギの崩壊もいちじるしく、形状も判別困難となっている。
*この見取り図は沼館愛三著作「無双連山を中心とせる諸城址の研究」を参考に作成した。 川根本町教育委員会
徳山城址について
徳山城址について
この付近は、南北朝時代に、当地を支配していた土岐氏の山城「徳山城」があったところです。
居館を堀之内(現 徳山)に置いた土岐氏は、屏風のようにそびえる無双連山を天然の要害として、本城をここに築きました。南朝方についた土岐氏は、この城に立てこもり、足利方の今川氏と激戦を繰り広げました
犬戻り
清水砦
徳山城の本城、支城、砦群の関係について
徳山城の本城、支城、砦群の関係について
この関係図は、徳山城主 土岐氏の支配下を示す。土岐氏は河内の国の出身で、平安時代初期頃にこの地に来たと伝えられえている。
現在、徳山地区にある、徳山神社(八八八年)、八幡神社(一〇五五年)などを創建したと記述にある。その時代より、徳山神楽ヒーヤイ踊り等の文化を伝承され、豊かな地域を形成してきた。
土岐氏が統治して平和な時代が数百年続いたが、やがて南北朝の戦いに巻き込まれていった。京都大学所蔵の駿河伊達文書によると、一三五二年二月二十日、足利尊氏の命により、今川範氏は伊達景宗を従えて駿遠の南朝方を鎮定すべく駿河に入る。
一三五二年八月二十日~九月九日
島田 大津城(城主 土岐四郎左衛門)を攻撃し落城させた。
破れた難聴軍は徳山城(城主 土岐彦太郎)のもとに逃れた。
一三五三年二月十日
北朝軍が徳山城の攻撃を始める。
河内川方面よりの正面攻撃が攻を奏さなかったので、
搦め手の藁科口に転じ背後より迫る攻撃に出た。
十一日
萩多和城 陥落
十三日
護慶土城 陥落
十六日
朝日山陣馬 陥落
十八日
四伝多和場 陥落
二十五日
本城 陥落 と駿河伊達文書に記載がある。
その後、土岐氏は今川氏に属し、この地を治めたと言われている。