大平城跡(おいだいらじょうあと) おんな城主 直虎 ゆかりの地




大平城跡(おいだいらじょうあと)

大平城跡/浜松市
http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/bunkazai/shitei/hamakita/hamakita/oidaira.html

新東名 浜松SAのすぐ側に 大平城跡(おいだいらじょうあと)があります。

南北朝時代、後醍醐天皇の皇子 宗良親王は井伊氏の助けを得て遠江にいましたが

北軍に攻められ三岳城を敗走しこの城に入りました。

しかしこの城も落城し親王は信濃へ落ちのびたと伝えられています。

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大平城跡(おいだいらじょうあと)

大平城は、南北500メートル、東西400メートルの南北朝時代の山城
(尾根式複郭型山城)である。
現在、樹木に覆われているため、外観では普通の山にしか見えないが、
山の南側は複雑に谷が入っており、北側と西側は断崖となっている。
また、城の南側前方には灰ノ木川が流れ、天然の堀になっている。
東側は尾根続きとなっているため、大規模な掘割が造られている。
城は、自然地形を利用して、曲輪を縄張しており、南城と北城の二区画に区分され、
一城別郭の形態を成し、北城が中枢部で、南城は二次的機能を持っていたと考えられる。
大平城は、南朝側についた引佐町にある三嶽城を本拠とする
井伊氏の支城の一つとして築かれた。
井伊氏は、三嶽城を中心に、南を浜松市の鴨江城、
西を三ヶ日町の千頭峯城、東を大平城と支城を固めた。

井伊氏は、南朝の後醍醐天皇の皇子の宗良親王を迎え、
遠江国の南朝勢力の中心となった。
大平城の南朝軍と足利尊氏の命を受けた高師泰率いる北朝軍の攻防戦は、
歴応二年(延元四年・1339)から翌三年(興国元年・1340)
にかけてくりひろげられた。
この時の戦いの様子は、三ヶ日町の大福寺に残る
「瑠璃山年録残編裏書」に詳しく書かれている。
『歴応二年己卯七月廿二日 為井責越後殿下 大平ニ向給 尾張殿浜名手向給
カモヘノ城廿六日追落畢 同十月卅日 千頭峯城追落畢 同次正月卅日
ミタ□城追落畢 同次年八月廿四日夜 大平城□落□□。但当国守護新木殿落給』
この資料を要約してみると歴応二年七月二十二日、北朝方の高師泰(越後殿下)の軍が
大平城に侵攻し、高師兼(尾張殿)の軍は浜名方面に侵攻した。
七月二十六日に鴨江城が落城し、十月三十日に千頭峯城が落城した。
翌年の歴応三年正月三十日に三嶽城が落城した。
そして、八月二十四日に大平城が高師泰と遠江国守護の仁木義長の軍によって
落城したことが書かれている。
こうして南朝方は、遠江国での拠点を失い、宗良親王は信濃国へ落ちていった。
その後、大平城は歴史の上にも、記録の上にも登場することはなかった。
『大平城跡案内板』


五体力神社由緒之碑


五体力神社

この城では激戦が繰り広げられました。

五人の勇敢な士を中心に戦ったが、敗走となりました。

後年、鎮魂のために 五体力神社が建立されています。

浜松市指定史跡
大平城址

今から約600年前の南北朝時代、後醍醐天皇の皇子、
宗良親王は井伊氏の助力を得て遠江にいましたが、
歴応3年(1340年)正月に三嶽城が足利勢に攻められ落城したため、
この城に入りました。
しかしこの城も高師泰(こうのもろやす)、仁木義長らに攻められ
8月に落城し親王は信濃へ落ちのびたと伝えられています。
この付近の地名には、城のなごりをしのばせるものがいくつもあります。
浜松市教育委員会

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