椎ケ脇神社(しいがわきじんしゃ)・浜松市天竜区二俣町鹿島




椎ケ脇神社(しいがわきじんしゃ)・浜松市天竜区二俣町鹿島

静岡県浜松市天竜区二俣町鹿島、天竜川の南

天竜浜名湖線の西鹿島駅の北に鎮座する椎ケ脇神社(しいがわきじんしゃ)です

参道より

平安時代前期の延暦20年(801年)桓武天皇の命を受け、

蝦夷征伐のため、征夷大将軍坂上田村麻呂が当地に下向してきた。

しかし、天竜川が洪水により氾濫し、大海のようになり対岸に渡ることができなかった。

そこで地元の者達は、筏を作り、田村麻呂を対岸へ渡したところ、

大変喜び、この地の減水を祈り、闇淤加美神を奉斎したのが当社の始まり。

坂上田村麻呂は帰京後、当社へ鬼神丸となづけた刀を奉納する。

社宝として太刀銘金字で鬼神丸と記された、長二尺五寸の太刀がある。

椎ヶ脇神社 由来

椎ヶ脇神社由来

椎ヶ脇神社は、桓武天皇の延暦20年(801)征夷大将軍坂上田村麻呂(758-811)が陸奥地方の蝦夷反賊の征伐のため下向の折、天竜川が洪水氾濫し、磐田の海と重なって大海となった。東岸(野部・広瀬)に渡ることも出来ず困っていた。その時、土人(鹿島に住んでいた昔の人)が筏を作り将軍を渡したところ、大変喜ばれこの地に減水を祈り「闇於加美神」を祀り給わった。これが現在の椎ヶ脇神社祭神である。
尚、伝承によれば、椎ヶ脇神社の呼称は、往古猪家神社とも呼んでいた。この神社の北側には、天竜川の深淵があり、その断崖絶壁の上に大木の椎ノ木があり、これから椎ヶ淵と称し淵に臨んだ神社から椎ヶ脇神社と転称したとも言われる。
古来、椎ヶ脇神社は天竜川の水利を守り船の安全を保ち、堤防の破損を免れ流域の大氏神として水害多き村々に御分霊を紀ってきた徳川幕府から慶長7年(1602)伊奈備前守より、神田朱印高二十石を寄進された。
又、天正19年(1591)浜松城主堀尾六左衛門光景が、宮奉行中村宗助と代官池田忠左右衛門に命じて再建させた本殿は、総ケヤキ造り、桁行1.8m、長さ3.96m、梁間2.5m、棟高5.4m、軒高2.89mである。
神社は、明治5年12月10日郷社に列せられ、明治40年3月15日神饌幣帛料を供進される神社として指定された。

神門

手水舎

拝殿 神明造柿葺

椎ヶ脇神社 

鎮座地 静岡県浜松市天龍区二俣町鹿島 1-14
御祭神 闇淤加美命 豊玉比売神
例 祭 1月中旬日曜日 例大祭
社 格 旧郷社
由 緒 慶長7年(1602)徳川幕府朱印高二十石
明治6年3月郷社
同40年3月5日神饌幣帛料供進社指定
境内社 田村神社・水神社

本殿 境内社 田村神社・水神社

椎ヶ脇神社

郷社椎ヶ脇神社由緒記略
郷社椎ヶ脇神社は闇於賀美神豊玉姫神を斎き奉り合せて天照皇大神豊受大神彌都波能売神を奉祀す。天龍川の河畔なる鹿島の丘上に鎮座し給ふ。水利舟楫守護の大神として古より神威灼然に明治5年公には郷社の列に加へられ郷民は更なり大方の尊崇景仰を纏め給ふことまことに外所に超えたり。
延喜の制遠江国長下郡四座の内なる猪家神社は即ち此の御社に当れるゆえよし既く有識の人の間に唱へられ公にも亦しか名されてそ今に至れる。
御社の名の古今と違へるは長き間の世の移ろい淵瀬も定めぬ河沿の地の名の変れるが任に長下の郡は夙く合わられて旧き名となり猪家の称謂は河の名の鹿川の訓と会ひて何時しか猪川と記され更に又椎川の文字にも替へられて竟には御社の御名も椎ヶ明神椎ヶ脇明神などの称と共に今の御名をこそ称へ奉るに至れるなりけれ。
そゝり立つ神域の懸崖の下を流るゝ天龍の大河はそのかみ大天龍小天龍など名も高く滝鳴る流れは濶く急く天つみそらの中川の称さへいみじく淵瀬定まらで懸梁かくべくもあらず旅人どもが往くさ来さ身をば浮木の思して船渡りしたりと伝ふるもゆゝしく一度河水の溢るれば逆巻き寄する激浪は堤塘を損ひ田畑を浸し去りて其の耗も測り知られぬ慮の外なる例も稀々にてはあはれ郷民を挙り所治むる職に皆一つ心に尊き大神の御徳を被り持ちて常に治水の謀を廻らし功績をさめし心尽の蹤も今に著く崇ひ仕へ奉れる武家地頭等が内には神地寄せ奉り宮殿へ琢きたて浅からぬ報賽の真心を捧げ奉れる事どもぞ世々の史には見えたる。灼然なる神威の御光を仰ぎては河沿の郷々村々さては遠き近き数多所に大神の分霊斎き奉り御社建て奉りて遠長に崇ひ奉れるら鮮からずなし。
今年皇紀2600年のめでたき歳を迎へ天地と栄ゆる大御代の御隆をこと寿くなへに天の中川流れ絶えせず永久に幸へ給ふ高き尊き大神の御徳を称へ奉り広き洽き御恵の露を被り来にし世々の御跡の縁の條々をかつかつにも記し叙て、今を見し後の記念と是を碑に彫り留めつるになり。
昭和15年11月23日 従五位高橋萬次郎識

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