犀ヶ崖古戦場跡(さいががけこせんじょうあと)




犀ヶ崖古戦場跡(さいががけこせんじょうあと)


犀ヶ崖資料館/写真提供:浜松観光コンベンションビューロー

おんな城主 井伊直虎 ゆかりの地
http://hamamatsu-daisuki.net/naotora/land/

犀ヶ崖古戦場跡

定休日 毎週月曜日(祝日の場合は翌平日)・祝日の翌日・12月29日~1月3日
開館時間 9:00~17:00
住所
静岡県浜松市中区鹿谷町25-10(犀ヶ崖資料館)
053-472-8383
入館料 無料
交通 JR東海道新幹線「浜松駅」から遠鉄バス舘山寺温泉行きで約10分、
「浜松北高」下車すぐ

浜松元城町東照宮 (引間城跡・曳馬城跡)・浜松城を巡り犀ヶ崖古戦場跡へ

国道257号線沿(通称 姫街道)布橋一丁目の交差点にあります。

写真を保存した後、PCが水没し画像が失われる不運があり

twitter上になんとか残った画像のみです。


犀ヶ崖古戦塲の石碑

三方ヶ原の合戦で大敗した徳川家康は辛くも浜松城に逃げ戻る籠城する

近くで野営する武田軍に一矢報いようと奇襲攻撃を仕掛けた場です。

この石碑後ろには切り立った崖が弧線状に広がっています。

天竜川が三方原台地を削ってできたと思われる地形、

現在は大半が埋め立てられてはいるものの際に立つと足がすくみます。

犀ヶ崖の戦死者の鎮魂のため供養・布教の後

踊り念仏が盛んになったそうです。

犀ヶ崖古戦場

元亀 3年(1572)12月22日、三方ヶ原で甲斐の武田軍に惨敗し、
敗走した徳川軍は、武田軍に追い込まれるかたちで浜松城に籠城することになった。
武田軍は追撃を中止して、犀ヶ崖付近で一部の兵を集めて夜営した。
犀ヶ崖は、浜松城の西北、約 2キロの所にある断崖であり、太古、三方原台地が水蝕によって陥没し、
東西約 2キロ、幅30メートルの深い裂溝をつくっている
(合戦当時は、幅約50メートル、深さ約40メートルにおよぶ大きな谷間であった)。
ここで、強力な武田軍に対して、三河武士の心意気を見せた戦闘が行なわれたと伝えられている。
徳川軍は、反撃に転じるために一計を案じ、犀ヶ崖に武田軍を追い落とそうと、
崖に白い布を張り、丈夫な橋が架かっているように見せかけ、夜半になって、
浜松城の近くにある普済寺に自ら火を放ち、浜松城が炎上していると見せかけておいて、
浜松城内に残っている鉄砲を集めていた、大久保忠世、天野康景らが犀ヶ崖付近の間道を通って
武田の陣営の背後にまわり、鉄砲を撃ち込み、夜襲をかけた。
不意打ちをかけられ、逃げ場を失った武田軍は狼狽して、台地を駆け走り、
闇の中で地理不案内のために人馬もろともを犀ヶ崖の谷底へ転落、又、ある者たちは、
徳川軍が張った白い布を橋と勘違いして転落したといわれ、たちまち数10人が絶命したという。
この報告を受けた武田信玄は、「勝ちても怖き相手なり」と、20歳も年下の家康公を評したと伝えられている。
三方ヶ原合戦の翌々年頃より、夜更けになると犀ヶ崖の谷底から人や馬のうめき声が聞こえ、
付近で怪我人が続出したり、イナゴの大群が発生して農作物に被害を与えたりしたため、
人々はこれは犀ヶ崖の戦死者の「たたり」と恐れるようになった。
そこで家康公は三河から了傳(りょうでん)という僧侶を招いて、
7日 7夜、鉦と太鼓を鳴らして供養したところ、「たたり」は治まったといわれている。
以降、家康公は、三葉葵の紋付羽織を着ることを許し、念仏踊りを奨励した。
その後、了傳の後を継いで宗円がさらに布教に努めたため、
遠州各地で大念仏が盛んに行なわれるようになったといわれる。
現在、犀ヶ崖資料館となっている宗円堂には、三方ヶ原合戦による両軍の死者の霊が祀られており、
その霊を慰めるために、毎年 7月15日に犀ヶ崖において、遠州大念仏が行なわれている。

約2年ほど前まで、「宗円堂」と呼ばれる戦死者を供養するお堂が立っていたが、

老朽化が進み現在は資料館になっています。

資料館には合戦当時のジオラマや、遠州大念仏の衣装等が展示されています。

ボランティアの方が2名在中されており、いろいろなお話を伺うことができました。


夏目次郎左衛門吉信の碑

徳川家康公の身代わりになって散っていった武士

夏目次郎左衛門吉信の石碑が犀ヶ崖古戦場跡の近くにあります

職員の方のお話しでは、先人の忠義をたたえた(旌忠碑)は

市民の小学生のからの寄付で建てられたそうです。

また、石碑後ろに見える道が本来の姫街道で、戦時中物資移動のため、

犀ヶ崖を埋め立て今の国道257号へ拡張したとのこと。

昔から地域に住んでいる人に聞かなければ解り得ない貴重なお話です。

夏目次郎左衛門吉信の碑

家康の身代わりとなったと伝えられる武将

夏目次郎左衛門吉信(なつめじろうざえもんよしのぶ)の石碑は高さ約4メートルで、
犀ヶ崖(さいががけ)古戦場とされる地域の一角にあります。
永禄6年(1563年)の三河一向一揆の際、六栗(むつぐり現在の愛知県額田郡幸田町六栗)
城主だった吉信は一揆勢に加担したといわれ、その罪で処刑されるところを、
徳川家康の寛大な処置によって助けられたといいます。
この恩を感じた吉信は、三方原の合戦の際、主君家康の身代わりとなって武田勢の前に立ちはだかり、
討死したと伝えられています。

他にも犀ヶ崖古戦場跡の敷地内には、

武田軍に大敗した徳川軍が撤退する際に殿(しんがり)を買って出て

討ち死にした本多肥後守忠真の忠義を称えた(本多肥後守忠真の碑)や

ねずみ小僧の墓・徳川16代 家達(いえさと)公お手植えの楠などの見所があります。

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