惟喬親王御陵・滋賀県東近江市箕川町




惟喬親王御陵・滋賀県東近江市箕川町

惟喬親王(これたかしんのう)は人皇五十五代文徳天皇の第一皇子であったが、

母が藤原氏の出でなかったため、皇位につけず世を避けて仏門に入り

近江の小椋谷に隠棲したと伝わります。

木材を円形に加工する轆轤(ろくろ)技術を杣人に伝授したとする伝承が生まれ、

椀や盆をつくる木地師の祖神として崇められてきました。

惟喬親王/Wikipedia

木地屋の本拠地、蛭谷地区には惟喬親王(これたかしんのう)が

貞観七年(865)に宇佐八幡を勧請して創建した筒井神社が鎮座しますが

あちらは明治に入ってから遷座したもので、

それ以前は山を越えた筒井峠にあったといいます。

現在その場所は惟喬親王御陵としてその跡をとどめています。

惟喬親王は惟仁親王が天安2年(858)清和天皇になられたのち大宰帥・弾正尹・常陸太守・上野太守を歴任し、貞観14年(872)29才で病を理由に出家、山城国愛宕郡小野郷(現・京都市左京区大原)に隠棲され、(このため小野宮とも称されている)寛平9年(897)2月20日、54歳にて薨去された。
以上が正史とされる惟喬親王の事蹟で、京都市左京区大原上野町に親王の墓と伝える五輪の塔がある。(宮内庁治定)

木地師の歴史は、木地師資料館のパンフレットに次のように書かれている。
貞観元年(859年)藤原良房を背景とする皇位継承の煩いを避けて都を逃れ、愛知川沿いに鈴鹿の山深く分け入り、この地に幽棲された文徳天皇の第一皇子惟喬親王は法華経の巻物の紐の原理から、里人に綱を引いて軸を回転させる手引きロクロを造り、椀や盆を製作する木地挽きの業を伝授されたと伝えられている。
往時は、筒井千件、小椋千件、藤川千件と言われるほど木地師が数多く住んでいたが、中世末期の頃より、材料の原木が無くなると彼らは、次第に全国各地に良質の木を求めて分散していった。
その頃より、この地は、全国の木地師を統括することになり、蛭谷筒井公文所、君ヶ畑の高松御所金竜寺では、諸国の木地師に「山への立ち入り、原木の切り取りは自由という許可証」や、「妻子眷属共々に、諸国の関所を自由に通行できる往来手形」を発行する特権が与えられていた。また、この地から諸国の山々を巡回した近世の氏子駈帳には、実に数万戸の木地師名が記帳されている。

惟喬親王座像

惟喬親王幽棲之跡の碑

明治初年に廃村のため蛭谷に遷座した旧筒井神社の境内と思われるところに、

石板に筒井と刻まれた小さな祠がある。

ここで毎年7月に惟喬親王祭が行われる。

今も多くの木地師、木工、挽物などの氏子らが全国各地から集まるそうです。

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