灰縄山(1436.8m) 京丸山(1469.5m) ボンジ山(1293.1m)・勝坂
浜松市天竜区春野町勝坂より ボンジ山・京丸山・高塚山を登る予定でしたが、
途中に見える山容に引かれ急遽 灰縄山(三ッ森山)を経由し周回して来ました。
ボンジ山(ぼんじやま)
標高 1293.1m | 登山日 2020年11月25日 |
原生林が美しい山 | |
所在地 静岡県浜松市天竜区春野町豊岡 |
京丸山(きょうまるやま)
標高 1469.5m | 登山日 2020年11月25日 |
京丸牡丹 伝説の残る秘境の山 | |
所在地 静岡県浜松市天竜区春野町小俣京丸 |
灰縄山(三ツ森山)(はいなわやま・みつもりやま)
標高 1436.8m | 登山日 2020年11月25日 |
原生林が美しい山 | |
所在地 静岡県浜松市天竜区水窪町地頭方 |
難易度 ★★★ オススメ ★ | 登山口(ナビ検索) 勝坂神楽の里 |
スタート地点(08:27)→ボンジ山(10:30)→京丸山(11:51)→灰縄山(13:09~13:11)→楽善橋(15:02)→ゴール地点(15:24) 所要時間 6時間56分 累積標高 1713m / 1714m 距離 17.5km | |
■京丸山は南アルプス深南部にある秘境の山。シロヤシオの群落があることで知られ、尾根には群生地もある。山麓にある京丸集落跡は、かつては20世帯もの人が生活していたが、廃村となっている。現在でも藤原家の立派な家は残っている。 ■ー |
勝坂神楽の里総合案内所 より
背後の入地山へ登って以来
勝坂橋
登録有形文化財「旧勝坂小学校」へ
旧気多村立勝坂小学校校舎
静岡県
昭和中/1955木造2階建、鉄板葺、建築面積208㎡1棟静岡県浜松市天竜区春野町豊岡字キタノシマ240-3他登録年月日:20160225勝坂自治会登録有形文化財(建造物)
外壁下見板張の校舎。当初から複式学級を想定し、一階に職員室と普通教室、二階に講堂兼特別教室を配す。柱の添柱や小屋の方杖、採光に配慮して広めた窓部や反射光を取り入れる中庇などに当時の学校建築の特徴を示す。山村風景に彩りを添える木造校舎。 文化遺産オンライン より
校庭の横に登山口
山の神にお参り
立派な石積みの廃屋、登り始めは歩きやすい道
その後何度か方向を変える
灰縄山(三ツ森山) 奥に常光寺山
ボンジ山(1293.1m)
勝坂からだと登った感があります
三等三角点(梵字)
石切ゲート(京丸林道)との分岐
以前 門桁より灰縄山へ登るもヒルに襲われ撤退
京丸山手前の分岐からも行けることは調べてあったので
急遽周回することにしました
暖斜面に広がるブナ林
前回は花の頃に歩いた シロヤシオの群生地
京丸山手前P1436から灰縄山へ至る尾根
冬枯れした木々の間から
竜馬ヶ岳 岩岳山などの山々が見えます
たおやかな山容のボンジ山
京丸山(1469.5m)
三等三角点(堂木)
ここから高塚山までの未踏の区間を歩く予定でしたがまた今度
再び灰縄山への分岐より
黒法師岳 バラ谷ノ頭 房小山
鞍部まで200m程下る
山頂手前には崩壊箇所もあるので要注意
高塚山〜鋸山
灰縄山(三ツ森山)(1436.8m)
三等三角点(三ツ森)
山頂から南西に伸びる尾根から下山
ショートカットして灰縄林道へ
林道へ至る尾根終わりは崖
手前で降りて正解でした
灰縄林道入口のゲートを経て
県道389号(水窪森線)へ合流
気田川(明神峡)
明神峡
春野町勝坂から、上流に流れる気田川沿いの約5km程の渓谷を明神峡と呼ぶ。上流に行くにつれて両岸の山すそが次第に急峻となり、断崖がそそり立つ風景に。激流に洗われた岩肌や巨岩が多く、四季折々の美しさを見ることができる。秋はこの渓谷一帯でカエデやケヤキ、ブナなどの落葉広葉樹が鮮やかに染まり、紅葉スポットとして多くの人々で賑わう。迫力のある岩肌や大きな岩と澄み切った清流、そして紅葉の彩りのコントラストは見事。
勝坂砦跡
勝坂城砦
町指定史跡 昭和四十一年十二月二十六日
勝坂城砦は、気田川に囲統され、西南嶺は鹿々鼻から峰伝いに信州街道に接続しており龍頭山、秋葉山を経て犬居本城と往来した天野氏が、軍略上最も頼みとした堅固な砦であった。その起源が定かではないが、元広元年(一三三一)、初代犬居城主天野経顕が地頭職として鎌倉幕府から派遣されて後、犬居と奥山(水窪)の間にあって何等かの重要な関係をもっていたものと思われる。天正四年(一五七六)七月、徳川の軍勢大挙しての攻略に最後の砦として戦ったが、武運つたなく甲斐の武田方に逃れた。
平成二年七月三十一日 春野町教育委員会
勝坂神楽(奉納神楽獅子舞)が行われる神社へ
再び旧勝坂小学校に行くと 銀杏の落葉にハート
八幡神社
町指定民俗文化財
勝坂神楽の由来
昭和四十一年十二月二十六日 春野町豊岡 勝坂自治区
春野町勝坂地区に在る八幡神社並びに清水神社の祭典(毎年十月下旬)に際して、地域の若衆によって舞われる神楽である。八幡神社には、「慶長六幸丑年十二月吉辰(一六〇一)奉造 南宮大明神社頭一字」と記された棟札が所蔵されており、その記録の一部の「神入弥宜森山の源助(現 八幡神社宮司 鈴木房治氏の先祖)並びに左近尉神楽男子各々諸願成就」としるされている。後の寛文十二年(一六七二)、社名を八幡神社と改められ現在に至っている。
神楽の発祥は定かではないが、由来記によれば三百六十年余の伝統をもち、天下泰平、武運長久、氏子繁昌、五穀豊穣を祈る行事であるという。神楽舞は男子に限られ、両者の神前に於ける奉納神楽獅子舞と渡御の道中舞の二つからなる。元来獅子頭を被って舞う一人立舞で二人の横笛と大小二つの太鼓の音に合わせて、おかめに裾を持たせて自ら舞うのであるが、清水神社前の舞を「ホロ舞」といい、八幡神社前の舞を「ノサ舞」といわれる。
最初、清水神社前で一人立舞が行われ、終わると亀面を被った若衆に先導され、獅子舞を先頭に揃いの浴衣を着て、花笠を被り手に各々秡を持った若衆十人余りが手振面白く舞いながら八幡神社前に到獅子舞を中心に花笠若衆で輪形を作り、秡を操りながら楽の音に合わせて、輪形をせばめたり開いたりしながら踊る素朴な舞である。
輪型は古代人の最も崇め恐れた太陽を形どって舞われるものといわれ、長い伝統の上に培われ、昔ながらを保存してきた郷土色の豊かな神楽である。道中舞の行列中に大いなる男根の模型を背負って行く若者のあるのもまた奇観、男根は太陽に通ずるものと思われ、古代色豊かな神楽である。
清水神社