欅立山(888.6m) 欅北小山(865m) 高山(836.2m) 大道山(448m) 帆掛山(304.21m) 梶原山(270m)・清水アルプス




欅立山(888.6m) 欅北小山(865m) 高山(836.2m) 大道山(448m) 帆掛山(304.21m) 梶原山(270m)・清水アルプス

静岡市街からほど近い、人気の竜爪山への登山口「平山旧登山口」より

今回は竜爪山へは向かわず、穂積神社から一旦、欅立山へ向かい

高山経由で周回してきました。

梶原山 〜 帆掛山 〜 大道山(山原中継所)までは「清水アルプス」

と呼ばれているそうで、せっかくなので大道山へも立ち寄りました。

欅立山(けやきだてやま)

標高 888.6m 登山日 2020年12月5日
竜爪山からみて北東のピーク
所在地  静岡県静岡市清水区吉原

欅北小山(けやききたこやま)

標高 865m 登山日 2020年12月5日
欅立山の先のピーク
所在地  静岡県静岡市清水区吉原

高山(たかやま)

標高 836.2m 登山日 2020年12月5日
竜爪山の東 存在感のある山
所在地  静岡県静岡市清水区伊佐布

 大道山(だいどうやま)

標高 448m 登山日 2020年12月5日
山頂には山原無線中継所
所在地  静岡県静岡市清水区山原大道

帆掛山(ほかけやま)

標高 304.21m 登山日 2020年12月5日
山頂は「一本松公園」として整備されている
所在地   静岡県静岡市葵区長尾

梶原山(かじわらやま)

標高 270m 登山日 2020年12月5日
梶原山の山頂付近一帯が「梶原山公園」として整備されている
所在地  静岡県静岡市葵区長尾

難易度 ★     オススメ  登山口(ナビ検索) 平山旧道登山口
旧道登山口(06:49)→二十六丁(07:14)→穂積神社(07:28)→・848(07:40)→欅立山(07:54)→欅立山(08:10)→・848(08:23)→高山(09:13)→王峠(09:45)→大道山(山原無線中継所)(10:19)→柏尾峠(11:25)→帆掛山(11:50)→梶原山(12:02)→平山バス停(13:51)→旧道登山口G(14:29) 所要時間 7時間39分 累積標高 1823m / 1830m 距離 30.6km
■欅立山は静岡市街地の北方に位置する山で、標高888.8mで、標高のゴロがよいことからか、最近にわかに人気が出てきた山。西側の登山口にある穂積神社は、大己貴命と小彦名命の二神が祀られていたり、樹齢700年の杉の木があったりと魅力的な場所で、登山の際には訪れておきたい。山頂の周囲は木々に囲まれ、展望はない。
■帆掛山(ほかけやま)の山頂は広く、一本松公園として整備されており、車でも山頂直下まで来れる為親子連れ等で賑わっている。
■標高279mの梶原山の山頂付近一帯が「梶原山公園」で、頂上には四阿(あずまや)があり開放感がある。梶原山公園とその北側に位置する一本松公園をつなぐ約1kmの尾根は、ハイキングコースとして人気。
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平山旧登山口より「穂積神社」へ

穂積神社へ参拝後、高山分岐から欅立山へ

穂積神社

穂積神社(ほづみじんじゃ)

由 緒
穂積神社は駿河の国、静岡県静岡市に位置し、龍爪山に鎮座します。
龍爪山は文殊岳・薬師岳からなり、その昔約千三百年前空海(後の弘法大師)
が真言密教を布教の折、当山を訪れたと言い伝えられています。
当山は古くから山岳信仰の場であり江戸時代までは、神仏習合の龍爪権現様として
信仰されておりましたが、明治政府の神佛分離令により神道の穂積神社に改宗させられ
小松宮彰親王殿下の命名にて穂積神社の名を賜りました。
日露、日清、大東亜戦争を重ねるに従い武運長久、弾除けの守り神として、
全国津々浦々に知られ、多くの善男善女の崇敬を受け、国家安寧、五穀豊穣家内安全、
被災被弾の守護神として今日に至っております。

ご祭主
大己貴命(オオナムチノミコト)
少彦名命(スクナヒコナノミコト)

欅立山(888.6m)・三等三角点(吉原村)

笹藪の先に次のピーク

欅北小山(858m)

来た道を戻り高山へ

ソーラーパネル区間は倒木により舗装路へ迂回

途中の展望地より

欅立山からの尾根、中央に雲海に浮かぶ浜石岳

高山(836.2m)・三等三角点(伊佐布村)

高山 山頂手前の鉄塔より

P486 より大道山へ寄り道

大道山(山原)の山頂に電波塔中継所

大道山(山原) (448m)

竜爪山 高山

再び戻り、新東名 伊佐布トンネル付近より

静岡市街・瀬名・長尾・平山

柏尾峠 (230m)

帆掛山(一本松公園) (304.21m)

二等三角点(大内村)

清水市街、大道山から続く手前の尾根

三保の松原

日本平

あいにくのお天気だったが360°の素晴らしい展望

晴れていれば富士山、遠く沼津アルプスや伊豆半島の山々まで望むことができる

一本松公園

一本松公園

帆掛山は昔駿河湾を航行する船の目印とされた大きな松があったことから一本松公園の名前で親しまれています。帆掛山(一本松公園)は標高が304mで日本平とほぼ同じ高さです。
頂上の公園が静岡市清水区高部街ずくりの会を中心に整備され休憩の東屋が作られています。頂上からは静岡・清水の街が一望出来、南に日本平が眺められ、東の富士山の眺めが格別です。梶原山公園からは約1Kmの緩やかなハイキングコースとなっており、歩いて約30分で着きます。

普段は賑わっているそうですが貸し切りの山頂

少し先の梶原山へ

梶原山(270m) 梶原景時 終焉の地

梶原山

梶原平三景時終焉(自害)の地

鎌倉幕府を開いた源頼朝の家臣として勢力を振るった梶原景時(かじわらかげとき)も、頼朝が死ぬと北条氏や他の有力家臣と対立し、正治2(1200)年一族を率いて鎌倉を後にして西国へと向かったのです。
しかし駿河地方には景時脱出の触れが回っており、一行が清見関(興津清見寺町)にさしかかった時、駿河武士団の吉香(きっかわ)小次郎、渋河(しぶかわ)次郎、船越三郎、飯田五郎、矢部小次郎等と合戦になりました。戦いは高橋、飯田、高部地区にかけて激しく行われました。
景時の一族・家臣三十三人は次第に討ち取られ、中でも豪者(ごうのもの)といわれた梶原景茂(三男)はこれも駿河第一の豪者吉香小次郎と相打ちになり果てました。
戦いの様子を見ていた景季(かげすえ:長男)は父にむかい「もはや、かない候(そうろう)まじき、敵の名もなき下郎の手にかからんより、速やかに御自害あるべし」と言うのでした。景時も今はこれまでと思い、景季、景高(二男)と親子三人で鳥坂に程近い牛ヶ谷(梶原山)に入って行きました。
途中岩間から清水が湧き出していたので、髪を洗い整えたと伝えられています。その場所は今「鬢水(びんみず)」と呼ばれています。
山頂の草の上に座を占めた景時は「もののふのかくこ(覚悟)もかかるときにこそ 心の知らぬ 名のみお(惜)しけれ」と辞世の句をのこし三人共にこの地で自害しました。時に景時六十一歳、景季三十九歳、景高三十六歳でした。

平成八年五月吉日 高部まちづくり推進委員会

梶原山公園

静岡市葵区と清水区の境に位置する広大な広場となっている公園。旧静岡市と旧清水市が市境に共同で整備した。標高279mの梶原山の山頂付近一帯が「梶原山公園」で、頂上には四阿(あずまや)があり開放感がある。梶原山公園とその北側に位置する一本松公園をつなぐ約1kmの尾根は、ハイキングコースとして人気。梶原山の山頂にある360度を見渡せる展望台からは、葵区と清水区の煌めく市街光はもちろん、駿河湾を背景とした清水港や三保松原までの大パノラマが展開。夕暮れ時に視点を東に移せば、富士山から伊豆半島まで望むことができる。さらに観覧車が瞬く清水港の先には、ゆるやかな山の曲線が特徴の日本平がシルエットとして浮かび上がる。園内の四阿やベンチに腰掛ければ何時間でも鑑賞できるほどのゆったりとした時が流れるが、その反面、夜景は市街地を貫く東名高速道路が大きなアクセントとなる。連なるオレンジ色のナトリウム灯を沿うように車のヘッドライトやテールランプが走り抜け、動きのある光景が朝まで続いていくのだ。この日本平の静寂との対比は見事と言えるだろう。日本平が「日本夜景遺産」に認定され多くの来場者が訪れているが、こちらも本認定を経て、さらに多くの人々を魅了するに違いない。

賎機山〜静岡浅間神社へ至る安部東山稜

帆掛山に負けず劣らず、こちらも素晴らしい展望が望めます。

四等三角点(216.05m) (鳥坂)

静岡市街 谷津山、奥に焼津・丸子アルプス

瀬名古墳群

瀬名古墳群

五世紀~七世紀代まで、西奈地区を治めた豪族の墓と考えられ、前方後円墳3基。円墳3基・方墳1基以上で構成されています。

瀬名3号墳

昭和60年の発掘調査の結果、一辺が12m程の方墳で内部に横穴式石室が築かれ、副葬された須恵器・土師器・大刀・刀子・鉄鍬・金環・玉類が発見されました。これらから3号墳は六世紀後半に造られ、七世紀前半にかけて数回追葬が行われたことがわかりました。ここにある石は、横穴式石室に使用された石の一部です。 静岡市教育委員会

梶原一族いくさの跡

梶原一族について

治承4年(1180)、源頼朝は、平家討伐の旗あげをしたが、相模(神奈川県)の石橋山で敗れ、洞穴に隠れていた。
そこを平家方の将で、大庭景親に従っていた梶原景時が密かに助けた話しは有名である。
景時は、その後、頼朝に仕え平家追討や鎌倉幕府の創立に功をたてたが、頼朝没後の勢力争いに敗れた。
正治2年(1200)一族と共に西国の所領に向かう途中、駿河国、清見ヶ関から大内(清水区)あたりで鎌倉の命を受けたこの地の国侍の待ち伏せに遭い、戦いとなったが利あらず、梶原山に逃れ、一族共に自害して果てた。
梶原山の山頂には、梶原親子を供養した塚があり、地元では梶原塚という名でも親しまれている。

梶原景時 辞世

もののふの 覚悟もかかる 時にこそ
こころの知らぬ 名のみ惜しけれ

1.清見ヶ関
鎌倉を逃れ、夜間、清見ヶ関を通りかかった梶原勢は、この地に住む入江一族をはじめとする侍たちと戦いとなる。

2.庵原

当時は一面芦原の湿地帯の中であったので、月明かりをたよりに、両軍見えかくれながらの戦いとなる。戦場はしだいに高橋、大内と西へ西への移動していく。

3・大内
ここで、梶原勢は、吉川小次郎を主力とする地侍と激突。
景時の三男、景茂と小次郎が一騎打ちとなり秘術をつくして戦い、力つきて景茂が討たれた。また、負傷した小次郎も間もなく亡くなっている。

4.矢射タム橋
景時は西へ逃げ、瀬名川にさしかかった時、橋のたもとに待ち構えていた地侍が、いっせいに矢を射かけたので、「矢射タム橋」と言われるようになった。

5.矢崎
川合あたりまで進んだ景時は、更に行く手を地侍に阻まれ、「矢射タム橋」を逆戻りし、矢崎あたりで最後の死力をつくして戦ったがかなわず梶原山に逃れた。

6・梶原山。
もはやこれまでとみた景時親子は、湧き水で鬢(びん)をなおして、山頂で自害して果てた。

光鏡院

瀬名氏(今川一族)縁の光鏡院

ここから梶原山 帆掛山(一本松公園)へのハイキングコースが整備されています

浄土宗 清福寺

帰りは県道201号(平山草薙停車場線)通称「竜爪街道」

瀬名川沿いに戻る

平山旧登山口の祠

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