天塚(1112m) 八森山(1256.13m) トサワ山(1358m) 水梨山(1317.49m)・兵越峠




天塚(1112m) 八森山(1256.13m) トサワ山(1358m) 水梨山(1317.49m)・兵越峠

久しぶりに北遠の山へ 「天塚 ハチモリ山 トサワ山 水梨山」を登り

兵越峠からは青崩峠までを周回予定でしたが、急用のため県道412号で下山

天塚(てんづか)

標高 1112m 登山日 2020年2月26日
水窪100山の一座
所在地  静岡県浜松市天竜区水窪町奥領家

八森山(はちもりやま)

標高 1256.13m 登山日 2020年2月26日
水窪100山の一座
所在地  静岡県浜松市天竜区水窪町奥領家

トサワ山(とさわやま)

標高 1358m 登山日 2020年2月26日
水窪100山の一座
所在地  静岡県浜松市天竜区水窪町奥領家

水梨山(みずなしやま)

標高 1317.49m 登山日 2020年2月26日
水窪100山の一座
所在地  静岡県浜松市天竜区水窪町奥領家

難易度 ★★    オススメ  登山口(ナビ検索) 兵越峠
スタート地点(07:04)→天塚(07:39)→針間野峠(07:47)→ハチモリ山(八森山)(08:31)→トサワ山(09:16)→水梨山(09:55)→兵越峠(10:09)→ゴール地点G(10:59) 所要時間 3時間54分 累積標高 1090m / 1100m 距離 13.6km
■兵越峠(ひょうごしとうげ)は静岡県浜松市天竜区長野県飯田市の間にある標高1,165mである。地図上ではヒョー越と表記されるものもあり、単に兵越(ひょうごえ)と呼ぶこともある。また飯田市南信濃では、兵越峠(ひょうこしとうげ)と濁らずに呼んでいる。名前由来武田信玄西上作戦の折りにこの峠を越えたからといわれている。この峠で1987年より、毎年10月の第4日曜日に浜松市と飯田市で「峠の国盗り綱引き合戦」という綱引き行事が行われている。
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遠州(えんしゅう)地方とは旧令制国の遠江国(とうとおみ)一般的には、大井川から西側の範囲湖西市・浜松市・磐田市・袋井市・森町・掛川市・菊川市・御前崎一部(牧之原市・島田市・川根本町)のことを言います。 遠州灘から浜名湖、南アルプス・深南部まで、バリエーションに富んだ山々が多く魅力に満ちた山域です。

林道有沢針間野線

県道412号「南信濃水窪線」から林道有沢針間野線へ

ダート手前の駐車スペースより

小雪が散らつく中スタート

奥に大沢山

青崩嶺

四等三角点(824.55m)(遠木沢)

林道終点から尾根へ取付き、

防獣ネット沿いの急登へ

高森

天塚(1112m)

針間野峠(1057m)

石仏や金比羅大権現の石碑

一旦林道へ

ここまで踏み跡・マーキング共に豊富、

とても歩くやすい尾根です

奥に八森山 気持ちの良い稜線歩きが続きます

崩れている箇所もありますが さほど危険ではありません

八森山(1256.13m) 三等三角点(鉢森)

何故か水窪100の山標が2つ

点名は字違いなんですね

トサワ山(1358m)

山頂から林道方面へと下る

林道へ、完全に雪山化しました

林道脇から取付き県境尾根へと登り返す

水梨山(1317.49m)

三等三角点(水梨)

朝日山登山口へ

ここから先もいつか歩いてみたいです

国盗り公園

綱引き合戦の会場に出ました

「峠の国盗り綱引き合戦」とは水窪町と飯田市が国境をかけて

綱引きで対決し、勝った方が相手側に1m「国境」を広げられるというもの

峠の国盗り綱引き合戦

毎年10月の第4日曜日。静岡と長野の県境をかけて、紅葉の兵越峠で「峠の国盗り綱引き合戦」が行われます。信州軍は飯田市南信濃、遠州軍は静岡県浜松市水窪町から、両市の商工会青年部の精鋭が対戦し、勝った方が1メートル県境を相手方に移動できます。ユニークな村おこし行事として、全国的にも有名になったお祭りです。

国盗り合戦史

毎年10月、長野県と静岡県の県境兵越峠では、信州軍と遠州軍が「国境」をかけて綱引きで対決する「峠の国盗り綱引き合戦」が行なわれます。
長野県は飯田市南信濃、静岡県は浜松市水窪町の両商工会の青年部から精鋭が選出され、3本勝負を行なって勝った方が1メートル、相手側に「国境」を広げることができるのです。

この戦史をひもとけば、はじまりは昭和62年。それまで双方の商工会青年部は野球などで交流を深めていましたが、水窪町が招いた地域文化研究家の加藤伸幸さんの提案で綱引きをすることになりました。
ただ綱引きをするのではなく「国境」をかけて勝負するというアイデアが、その後21年にも及ぶ息の長いイベントにつながったのです。

初めは両青年部が和気あいあいと行なっていた綱引きですが、第4回の頃からテレビなどで取り上げられて話題となり、兵越峠に「綱引き広場」が作られたほか両町村の首長による口上合戦が繰り広げられるなど、ユニークなイベントとして現在のスタイルが定着しました。
平成13年には田中長野県知事も参加し話題となりました。
当初は藤蔓を編んで作った綱を用いていましたが、切れやすいために現在では綱引き用の綱に変え、細かいルールも定められた本格的なものになっています。
その一方、可愛らしい地元子供たちによる綱引きや、一般客による交流試合なども行われ、誰もが楽しめるイベントとなっています。

遠山郷観光協会

兵越峠の由緒

武田信玄が徳川家康と戦うために青崩峠を越えた際、

本隊は青崩峠を分隊は兵越峠を越えたことから名付けられました。

兵越峠は(ひょうごしとうげ)と読むが、

兵糧を運んだことから地元では(ひょーごえ)と呼びます

兵越峠の由緒

この峠を兵越峠と名づけたのは武田信玄が上洛を志ざし、元亀3(1573)年10月3日(新暦11月18日)約2万5千の大軍を率いて信濃国遠山領を通って、青崩峠の少し手前で分隊し、一隊はこの兵越峠も越したと言われている。
信玄が上洛のため信濃国、遠江国の国境の峠を越すことに意を決めたのは信玄の家来秋山信友が永禄11(1568)年、遠江国奥山、天野の両氏を味方につけるためにこの峠を越し、探索ののち5年後に天野氏を道案内として天野氏居城へ向ったのである。この国境にある2つの峠は青崩峠方面奥領家の谷は距離が短いため信玄の本体が通ったとしているが、兵越峠方面地頭方の谷は、北遠の穀庫といわれる谷で戦力を増すため雑兵、荷運搬馬は勿論の事、馬の餌、馬の草履、兵の草履、乾食料などの徴発や、敵が潜んでいるのを予想してこの峠を越したもので両峠は10月10日(新暦11月25日)に越し南下したのである。この峠は信玄の兵が越したと言われるゆかりの峠である。
世の中の進歩が歴史の道を、そして峠を忘却の彼方に押し流そうとしている。それがどんなに歴史的な意義があろうがなかろうが。。。
(看板資料より)

長野県の南端 遠山郷(とおやまごう)

兵越峠(1165m)

ここから青崩峠へ向かう予定でしたが

県道412号を降ります

現在までの戦歴は信州17勝・遠州15勝

実際の県境より2m遠州寄りです。

県道412号 

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