二俣城跡(ふたまたじょうあと)




二俣城跡(ふたまたじょうあと)

Wikipedia 二俣城
https://ja.wikipedia.org/wiki/二俣城

静岡県浜松市天竜区二俣町にある二俣城跡へ

家康の嫡男信康が悲劇の切腹をとげた城として知られています。

車で中腹まで来ることが出来ます。

「よいこはここであそばない」

城跡には旭ヶ丘神社があります。

旭ヶ丘神社(あさひがおかじんじゃ)の記事

浜松市指定史跡
二俣城址

二俣城の構造
標高90mの台地上に築かれた二俣城は、北側から北曲輪(くるわ)
本丸・二之曲輪・蔵屋敷・南曲輪がほぼ一直線上に配置されている。
天守台のある本丸の南・北にそれぞれ虎口(こぐち)を設け、
北虎口は喰(く)い違い虎口である。
本丸西側には小規模な天守台が残っており、石積みは野面積みである。
本丸の南側には二之曲輪があり、枡形(ますがた)門跡がある。
二之曲輪と蔵屋敷の間、そして蔵屋敷と南曲輪の間には
それぞれ堀切(ほりきり)がある。

歴代二俣城主
二俣には現在、城跡が三か所ある。
この城山(しろやま)のすぐ南にある「鳥羽山城」、現在、市庁舎が建つ「笹岡城」、
そしてこの城山の「二俣城」である。
これらの三城はわずか2km程の距離内にあり、
当時、この一体は「二俣郷」と呼ばれていた。
このようなことから、当時の文書に「二俣城」と見えても
どの城を指すのか確定するのは難しい。
ここでは、「笹岡城」を斯波・今川両氏の抗争期から永禄期(1500年前後〜1560年)
までと考え、「二俣城・鳥羽山城」を徳川・武田両氏の抗争の場となった永禄期から
元亀・天正・慶長初年(〜1600年前後)までと考え、文書を基に歴代二俣城主を紹介する。

二俣城をめぐる攻防
永禄11年(1568)12月から天正3年(1575)12月までの7年間、
二俣城は、徳川・武田両氏の攻防の舞台となった。
二俣城は天竜川と二俣川の合流点に位置する天然の要害であり、
しかも、二俣は遠江の平野部と北遠の山間地方とを結ぶ交通路の結接点で、
遠州平野の「扇の要」であったからである。

<元亀3年の攻防>
元亀3年(1572)10月、武田信玄は大軍を率い、
信濃を経て遠江に進入し二俣城を攻撃した。
武田軍は力攻めの方法をとらず、城の水の手を断つ作戦を選んだ。
徳川軍の城兵が崖に櫓(やぐら)を建て、釣瓶(つるべ)で
天竜川から水を汲み上げているのを知り、上流から筏を流して井戸櫓の釣瓶を破壊した。
こうして2か月ほどで二俣城は陥落した。

<天正3年の攻防>
天正3年(1575)5月、長篠の戦で勝利を得た徳川軍は、
武田勢を一掃すべく二俣城の攻撃に着手した。
鳥羽山に本陣を置き、毘沙門堂(びしゃもんどう)・蜷原(になはら)・渡ケ島に
砦(とりで)を築き二俣城を包囲した。
武田軍は7か月で兵糧(ひょうろう)が底をつき城を明け渡した。
そして、二俣城には大久保忠世が入城し、徳川氏が関八州へ移封する
天正18年(1590)まで在城した。
この間大規模な修築がなされ、天守台を始めとする諸施設を構築したと考えられる。

徳川信康自刃事件
大久保忠世が在城中に起こった事件として、
有名なものに家康の嫡子(ちゃくし)信康自刃(じじん)事件がある。
一般には、信康とその母築山(つきやま)御前が武田氏と通じていたことを理由に、
織田信長が信康を切腹させるように家康に命じたとされている。
家康はこれを受けて信康を天正7年(1579)9月15日、二俣城で切腹させた。
この事件は戦国哀史として広く知られている。
平成8年11月1日 浜松市教育委員会


天守台

小さい野面積の天守台があります。

天守台より


二の丸跡

二の丸跡横には城山稲荷神社 があります。


土塁

城山稲荷神社の脇に土塁が見られます。


堀切

城山稲荷神社の裏手へ回ると堀切の跡が見られる。

堀切から天竜川の河口へ下ることが出来ます。

その名の通り、天竜川が二俣川と合流する中州的な所にあります。

川沿いから二俣城跡を望む

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