横地城址(101.7m) 横地神社・静岡県菊川市東横地地内
静岡県菊川市東横地にある国指定史跡の「横地城跡」
室町時代に遠州の有力な国人でった「横地氏」の本拠地として築かれた山城です。
横地氏は藤原氏の血を引く豪族で、
鎌倉時代から室町時代にかけて約400年間、遠江の地に君臨しました。
当時の駿河の今川義忠と遠江の斯波義廉との争いにおいて、斯波氏方につき敗北
横地城も1476年に焼き討ちされ落城、横地氏は滅亡しました。
なお、今川義忠もこの帰路に夜襲を受けて討ち死にしています。
現在でも牧之原台地の尾根筋を利用した城跡には東の城・中の城・西の城の3つの曲輪、
一騎駆けなど数多くの遺構が残っています。
ここ横地城のある旧横地村は横地氏の名字の由来となった土地であり、
かつ全国の横地姓発祥の地とされます。
横地城跡駐車場
横地城の南側に20台ほど駐めることができる横地城跡駐車場。
トイレも完備。駐車場の横に登城道があります。
横地城跡案内図
御前崎遠州灘 県立自然公園
横地城跡案内図横地城は室町期の遠江国有力国人横地氏の本城として築かれた山城。山頂を中心に「東の城」、「中の城」、「西の城」を構え、土塁や堀切、曲輪などを配し、築造当時の面影を残している城跡として知られています。平成16年9月には国指定史跡となりました。横地氏は藤原南家の系譜を引く藤原姓の一族で、平安時代から戦国時代初めの文明8年(1476年)に今川義忠によって滅ぼされるまで栄えました。旧横地村が本貫地であるとともに、全国の横地姓の発祥の地でもあります。山城の中心「東の城」からは南に遠州灘、東に牧之原台地、その後方から北にかけて赤石山脈と南アルプスを望むことができます。「東の城」から西に向かえば「千畳敷」、「一騎駆け」、「金玉落としの谷」、「横地一族の墓」など、いたるところにその名残をとどめており、時を越えて“中世の世界”を感じることができます。また、県立自然公園に指定された付近一帯には、桜や笹ユリをはじめとした野生植物、野鳥などの自然が豊富にあり、心なごむ空間が広がっています。
登城口から10分程度登ると
現在、横地神社がある二の丸跡付近に出ます
史跡横地城跡
史跡横地城跡
昭和四十六年三月十九日静岡県指定
鎌倉時代より室町時代にかけて、遠州の古名族として武威を遠近に覇せた横地氏は平安時代末期に八幡太郎源義家の庶子ではあるが、長男として生まれた家長(永)に始まる。城は自然の地形をたくみに利用した山城で、東端の丘の本丸趾は西に向かって大きく三段を成し、頂上に土塁が残り、北に向かっては数段を構成し、最下部の段には井戸趾がある。この段から北西に向かってのびる尾根はいくつかの堀切で分断され、各所に段を形成しながら深い谷に向かっている。他の方向は険阻な地形ではあるが、やはりいくつかの段が築かれている。
二の丸は現在神社のある丘で、頂上からは落城当時を物語る焼米が出土する。二の丸と本丸の中間にある中城は南側に土塁と空壕が、また、中ほどに木戸跡がある。家長(永)に始まり十数代遠江に君臨した横地氏も文明間、同族の勝間田氏と共に今川氏に対抗して敗れ、両将共に討死した。一方戦いに勝った今川義忠もその帰路、正林寺付近(菊川市高橋)にも いて横地の残党により、命を落とした。義忠の急死は今川家に相続争いをおこし、これをおさめることにより伊勢新九郎、のちの北条早雲が台頭すつきっかけとなったのである。その後、永正年間に至り、今川氏の遠江掃討によって横地氏は滅亡し、わずかに生残るものも各地に四散した。ここ横地は一族の本貫の地であると共に横地性の発祥の地であり、城は四百数十年に亘る横地氏一族の夢の趾である。
昭和四十七年三月三日 静岡県菊川市
国指定重要文化財(史跡)横地城跡
(平成十六年九月三十日付文部科学者告知142号)横地城は、室町時代国人領主横地氏の山城です。山城は、長さ約1.5km余と大規模で築造形態の完成度の高い中世城郭として、平成十六年に国の重要文化財となり歴史的評価の高い史跡となっています。城は標高100m前後の山頂部を曲輪(くるわ)とし東曲輪(東城)、中曲輪(中城)、西曲輪(西城)三群から構成される連郭式山城で東曲輪がその中心にあたります。各曲輪を中心に、尾根や小支線に平場や堀切を丁寧に築き堅固な防御をなすと共に、自然地形を利用した要塞となっています。また城跡周辺には静岡県立御前崎自然公園となっており四季を通じ風光明媚となっています。
横地氏
横地氏は、平安時代(11世紀中頃)源義家と相良の土豪相良太郎藤原光頼との娘との間にできた子が横地太郎家長と伝えられています。家長は二俣弾正によって養育され以後、横地を本貫地として古名族として君臨をなす。なお、菊川の横地が全国の横地性の発祥の地となっております。
現在、城の西に広がる丘陵から奥横地のムラにかけて横地氏に関わる史跡が多く見られます。近年の発掘調査によって横地氏の住居跡の殿ヶ谷遺跡。武家屋敷の伊平遺跡などが発見され当時の全貌が少しずつ明らかとなってきています。
二の丸
二の丸
副将級と他地域から応援に来た武将が詰め、標高97.9m(この頂上に命じ三十五年、1902年静岡市麻機知徳院から家永像が来て、小祠をたて、それを機に、横地氏を祭る現在の横地神社がたてられる)南側は五段に形成され、前面に土塁と濠が廻らされ、北側には像の鼻に向かって八段、東の谷に向かって三ヶ所に段が、構築され、うち二ヶ所は十一段から成っている。やしろの裏手からは落城当時の焼米が出土した。
横地神社
現在、横地神社のある場所は西の城(二の丸)でした
周辺には土塁壕跡も残されています。
横地神社 拝殿
横地神社(二の丸)より
千畳敷
横地神社のある二の丸の前は「千畳敷」と呼ばれる曲輪
千畳敷きはかなり広く、西の城・中の城を繋ぐ中間地点にある主要な曲輪です。
この辺りの各曲輪は「一騎駆け」と呼ばれる、細尾根を利用した
人ひとり通れる幅の道で繋がれており、大群が通れない構造となっています。
中の城跡
中の城跡
東城と二の丸の境に木戸をもうけ、その傍東に兵器庫、千飯庫がおかれたところ。
金寿城(本丸)
戦時に城主、家族、重臣が住み、作戦協議、軍政協議をするところで、標高101.7m南側は絶壁に近い要害で、なだらかな北側に向かって数段の構えを成し、谷に向かって数段の段の構築、北西に向かう峰は数ヶ所切断、堀切をつけ谷に向かっている。東南よりに僅かに残る土塁が往時をしのばせてくれる。
横地城址 金寿城(本丸)
金寿城(本丸)標高101.7mの東の城跡
南斜面は切り立った断崖絶壁で北面は堀で斜面を切ってあります。
井戸跡
金玉落とし
膝つき谷城兵戦闘訓練の場で兵は膝つき谷の底に膝をつき待機、山上より太鼓を合図に金の玉を谷底に落とし兵は一斉に尾根にかけ上がり、又谷に下り、玉をさがしあてた者は山にかけ上がって賞を貰ったと伝えられている。
一騎駆
両岸きりたった絶壁で、大軍を推しても、通過するためには一騎づつしか渡れないので、この名が起きたのであるが、この一騎がけの両端には必ずねらいうち出来る様、備えの段が造くられていた。
古城を訪ねて
蕭々たる風は栄枯を語り 蕭条たるつきに古今を想う 今を遡る一千年の昔、源家の頭領八幡太郎義家が一子横地太郎家長はこの地に山城を築き遠州に覇をとなえた。以来十五代四百五十余歳の長きに亘り鎌倉幕府の時代を通し武門の家として君臨したが文明八年四月、今川芳忠の率いる軍勢に敗れ歴史の幕を閉じたという。今、古城の趾を訪ねて松籟に耳を傾け、一服の茶を喫する時、甲冑に身を固め颯爽と山野を駆け巡る若武者達の英姿を想うて胸の熱きを禁じ得ぬものである。
横地城跡
横地城跡
平安時代の中頃、奥州の豪族安部氏は叛き前九年、後三年の役といわれる長い乱が起こったが、当時陸奥守であった源頼義は、勅命によってこの乱鎮圧のため奥州に向かった。その子八幡太郎義家も、父加勢絵の為に遠州国見付(磐田市)の宿まで兵を進め、折からの長雨に滞在中、当時この辺りに勢力のあった相良太郎藤原光頼の娘との間にできた子が、義家の力によて横地村に住し。初代の横地太郎家長と伝えられている。又、今から900年の昔から、横地氏滅亡までの450年の間、遠州きっての古名族として、東海に君臨した横地氏は、当菊川の横地村が本貫の地であると共に全国の横地性の発祥の地でもある。「いにしえの戦いかにと尋ねれば こたえてさむし松風の音」
上池より望む横地城跡