山陵八幡神社・奈良県奈良市山陵町




山陵八幡神社・奈良県奈良市山陵町

奈良県奈良市山陵町

神功皇后陵の南に鎮座する山陵八幡神社 (みささぎはちまんじんじゃ)

御祭神は気長足媛命(神功皇后)・品陀和気命(応神天皇)・玉依媛命(神武天皇の母)

全国に約8万の神社があるうち、半数にあたる約4万社あるともいわれている八幡神社ですが、

その主祭神は大抵(応神天皇)であり、仲哀天皇・神功皇后が合祀されていることが多い。

しかしここでは神功皇后が主祭神に明記されています

創建由緒等については不明ですが、

明らかに背後の神功皇后陵を拝するために建てられたものと考えられる

鳥居

神功皇后陵の南側、

別の古墳の上に鎮座しているかのように見える

拝殿

本殿

本殿の背後には神功皇后陵(狹城盾列池後陵)があります

神功皇后(狹城盾列池後陵)

神功皇后(第14代 仲哀天皇 皇后)

諱  気長足姫

別名

息長帯比売命(古事記)
大帯比売命(古事記)
大足姫命(続日本後紀)
大帯日姫(日本三代実録)

誕生 生年不明

崩御 没年不明

地位 摂政 (神功元年10月2日 – 神功69年4月17日)

配偶者 第14代 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)皇后
御父 息長宿禰王

御母 葛城高顙媛
御陵名 狹城盾列池上陵(さきのたたなみのいけのえのみささぎ)
陵形 前方後円
所在地 奈良県奈良市山陵町

仲哀天皇の皇后。名は気長足姫。父は開化天皇の曾孫気長宿禰王。天皇と共に熊襲征伐に九州へ行ったが、天皇が神の怒りにふれて急死したため、武内宿禰と謀り懐妊のまま新羅を攻めて勝ち、帰国後応神天皇を生んだとされ、六九年間摂政として政治を行ったと『日本書紀』にある。皇后がこのような重要人物に仕立てられたのは、『書紀』の編者が皇后を邪馬台国の卑弥呼と同等の地位におこうとしたからであろう、との説がある。

記紀や『風土記(ふどき)』などにみえる伝承上の人物。『日本書紀』によると、仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后で、名を気長足姫尊(息長足姫命)(おきながたらしひめのみこと)という。父は開化(かいか)天皇の曽孫(そうそん)、気長宿禰王(おきながのすくねのおおきみ)、母は葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)。『古事記』では、父は開化天皇の玄孫で、母は新羅(しらぎ)国の王子天之日矛(あめのひぼこ)の5世の孫にあたるという。仲哀天皇が熊襲(くまそ)を討つため筑紫(つくし)の橿日宮(かしひのみや)(香椎宮(かしいぐう)。福岡市東区香椎町に所在)にきたとき、天照大神(あまてらすおおみかみ)と住吉(すみよし)三神が皇后にのりうつって託宣を下したが、仲哀はこれを信じなかったために急死した。そこで神功は、臨月であったにもかかわらず新羅を討ち、帰国後、筑紫の宇美(うみ)で後の応神(おうじん)天皇を出産。さらに大和(やまと)に帰還して麛坂(かごさか)・忍熊(おしくま)2王の反乱を鎮定し、応神が即位するまで69年間も政治をとっていたという。『書紀』にはさらに多くの日朝関係記事が記され、なかには干支(かんし)二運(120年)を下げれば史実と考えられるものもある。また4か所にわたって『魏志(ぎし)』や『晋書(しんじょ)起居注』が引用され、編者が神功を倭(わ)の女王(卑弥呼(ひみこ))に比定していたことは疑いない。この伝説は、古くから朝廷に伝えられていた朝鮮半島侵略の物語に、各地で語られていた母子神信仰に基づく民間伝承的なオホタラシヒメの伝承や、京都府綴喜(つづき)郡に居住した古代豪族息長(おきなが)氏の伝承などが加わり、さらに7~8世紀に古代天皇制の思想によって潤色を受け、最終的に記紀に定着したと考えられる。

福松大神

境内の東側に福松大神という稲荷社が鎮座

  • このエントリーをはてなブックマークに追加