山住神社(やまずみじんじゃ) 浜松市天竜区水窪町




山住神社(やまずみじんじゃ)

水窪情報サイト
https://www.misakubo.net/観光情報/史跡-遺跡/

浜松市天竜区水窪町山住に鎮座する「山住神社」です。

「山住神社」は、山住山(1107m)の山頂に鎮座し、山犬(狼)を祀る神社として有名

山住神社からスーパー林道天竜線を南下すると秋葉神社へと通じています。

元亀3年(1572年)、武田勢に追われていた徳川家康が山住に逃げ込んだとき、

山犬が一斉に吠えて武田勢を退散させたとされ、三方ケ原の戦いの後、

家康より二振りの刀剣が奉納されています。

狼信仰

現在ではあまり知られていませんが、狼はかつて信仰の対象でした。
多くの場合、山の神のお使いとして田畑を荒らす害獣を駆逐する役回りです。
また、狼自身が大口真神として神格を持つ場合もあり、害獣を退けることから、
悪しきものを噛み砕く神、魔伏せの神として崇められ、山の神が火伏せや多産、
豊穣の神であることから狼もまた火防や安産、五穀の神として信仰をあつめることがありました。

ここ山住神社は山犬信仰(狼信仰)の中心地です。

すこし手前の春野町にある、春埜山 大光寺にも山犬の狛犬が控えています。

春埜山 大光寺が里宮で、ここ山住神社は奥の院であったという説もあります。

春埜山大光寺(はるのさんだいこうじ)の記事

古多麻石

遠江風土記によると「天正四年(一五七六年)家康公行軍時、
御敵天野氏追ひ到って鬨聲を擧ぐ其聲石に響く則ち自ら畏れて退散す
故に古多麻石と曰ふ」
天正四年(一五七六年)家康公が山住神社を参拝したという記録はないが、
この年宝刀「伯耆安綱」が奉納された。天正二年の犬居城攻めは増水した気田川で撤退し、
天正四年の犬居攻めで天野氏は信州へ逃げ延びた。
山住神社由緒書によると敵が攻めて来たときお犬様の「ワゥオー・ワゥオー」と
大きな声は山に木霊し敵は驚き退散したと伝えられている。


手水舎

静岡県指定天然記念物
山住神社のスギ二本

目通り A 七.〇一メートル B 九.二〇メートル
根廻り 一〇.五〇メートル 一〇.三〇メートル
樹高 四〇.〇〇メートル 四一.〇〇メートル
枝張り (東西) 一八.〇〇メートル 二二.一〇メートル
(南北) 一七.〇〇メートル 一三.八〇メートル
樹令約一三〇〇年
材積約一〇四立方メートル(三七六石)

今時指定となった山住杉は和銅二年(七〇九年)
この地に神社鎮座の頃御神木として植栽されたもの と推定され
樹令一三〇〇年有余(昭和三十四年伊勢 湾台風による倒木の年輪によって確認できる)
が数えられ、この樹令に比して旺盛な樹勢は 稀らしいとされている。

山住杉の由来

この付近一帯の杉は元禄九年(一六九六)二月今からおよそ三〇〇年前
山住家二十三代大膳亮茂辰公 が当時幕府御用材の乱材を憂え、
遠く伊勢より 三万本の杉苗を購入し、この地方における造林 の第一歩を印した。
以来大膳亮は没年の延享元年(一七四四)まで
四八年間実に三六万本に及ぶ杉檜の拡大造林を進め、
明治、大正期、東京市場での「山住杉」の名声を残すと同時に、
今日における天龍林業の振興の基礎を築いた。
これから由緒ある杉は山住神社境内外に幾星霜を経た歴史の跡をしのぶことができる。
-境内案内-


拝殿

山住神社

御祭神

大山祇命・事解男命・伊弉册命・速玉男命

和銅2年(709)伊予の大山祇神(おおやまづみのかみ)を勧請して
山住(やまずみ)大権現と称した。
当初は、勝坂、あるいは門桁、あるいは宮川に創建された後、
現在地に遷座したという。

徳川家康が武田勢に追われ山住に逃げ込んだ時、
山全体が鳴動し、ウォーウォーという山犬の大音声がおこり、
武田勢を退散させた。
以来、徳川家康の崇敬を受けたという。
そのためだろうか、当社の神紋は葵の紋だ。
徳川家康を助けた山犬の声でも明白だが、
当社は、山犬(狼)信仰の神社。
当社の神札には、山犬様が描かれている。
山犬(狼)は、農作物を荒らす猪や鹿を退治する益獣であり、
焼畑の作物の守り神。
奥三河一帯には、山住神社の山犬信仰が浸透しているという。
昭和27年の佐久間ダム建設の時、
周囲の猪が、いっせいに愛知県東栄町方面へ移動し、
作物に多大な被害を与えた。
この時にも、猪害をさけるため、小字単位で山住の小祠を作って祀ったという。
猪退治の山犬信仰は、その後、悪霊除け、猿除けへと拡大した。

山住神社

山住神社は静岡県磐田郡水窪町山住230に鎮座せられ、
御祭神は日本総鎮守大山祇命にして、
和銅2年元明天皇の御代伊予国越知郡大山祇神社より遷祭し山住大権現と号す。
56代清和天皇の御代貞観2年1月27日遠江国正五位下苅原河内守従四位下を授けられ、
同16年2月23日遠江国従四位上を授けられ、
勅使を2回下向せられた延喜年中式内社に列せらる。
永正10年6月7日103代後柏原天皇の御代奥山郷高根城主大膳守武運長久の
祈願にて御造営(高根城跡は水窪町久頭合に有り)。
越えて105代正親町天皇の御代元亀3年徳川家康公浜松御在城の時(31歳)
三方原の戦い利あらず当神社へ逃げる。
敵は家康公を追って当神社に迫るや一天俄にかき曇り辺りは薄暗く日暮れの様相と化し、
風腥く霊山全域にてウオーウオー地響きのするうなり声起こり、
敵はこの奇声に胆を潰し退散、これを以て家康公安泰に難を逃れる。
翌天正元年正月17日(32歳)お礼御参社あり、
天正4年宝剣2振、慶長19年宝剣1振奉納せらる。
慶安2年8月17日徳川幕府累世御朱印を賜る。
114代桜町天皇の御代享保18年3月16日雷火の為本殿幣殿を始め
宝蔵に至るまで焼失したため御普請御免のお許しを請んとし、
大宮司山住大膳亮禰宜高木三郎太夫を従え、
時の将軍吉宗公に直参の際将軍の御意を以て夏6月江戸において臨時祭を斎行すると
一天かき曇り寒気甚だしく降雹あり。御感浅からず直ちにご普請差し許されたりと
明治5年山住神社と改め、県社に列せらる大神は専ら邪気退散魚漁豊足家内安全商売繁盛
お犬様信仰の御霊験あらたかで往時より遠近の信者登山参拝するもの甚だ多い。
海抜1100メートルに鎮座、周囲2丈余の御神木(神社庁指定)
老杉は天然記念物として県からも昭和46年8月3日指定されている。


本殿

紫宸殿の鵺退治

平安時代の末期、時の高倉天皇は、毎夜高熱に悩まされていた。
それは京都御所に現れる鵺(ぬえ)の仕業であった。
鵺とは頭が猿、胴体は虎、尾は蛇と、
その後の世評で言われた猿虎蛇の得たいの知れない妖怪であった。
朝廷よりこの妖怪を退治することを命ぜられた弓の名手「源三位頼政」は
家臣の右玄太と共に御所・紫宸殿(ししんでん)で夜の更けるのを待った。
時は過ぎやがて明け方近くなる頃、不気味な風と共に現れた妖怪は、
今、紫宸殿に上がらんとする時、矢は放たれた。
すかさず右玄太の太刀は妖怪の喉元を一撃した。
この物語の一場面を明治時代の大工であり、
彫り物師でもある掛塚の「曽布川藤次郎」が見事に彫り上げた。


社務所

山住神社と家康公

百戦錬磨、天下人となった戦国武将家康公は唯一大敗した戦があった。
元亀三年(1572)三方原において家康公率いる徳川陣は八千は
武田軍三万の大軍に打ち砕かれた。
この時家康公は血気盛んな32歳知略・戦略に長けた信玄公は52歳であった。
その後武田信玄は没し、天成年間になりこの地方は徳川の支配下となった。
家康公にとってこの戦いは終生忘れる事の出来ない教えとなる。
宿敵武田の居城甲斐の国は丑寅(北東)の方角に位置し
古来より鬼門の方角と言われている。
家康公は御領地の鬼門の方角を守護る山住神社を遠江の「丑寅の鎮守」
として末代まで篤く信仰された


境内社


境内社

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