金刀比羅宮(ことひらぐう)金比羅神社 総本宮・香川県仲多度郡琴平




金刀比羅宮(ことひらぐう)金比羅神社 総本宮・香川県仲多度郡琴平

琴平公園展望台より

全国にある金刀比羅神社(金比羅神社・琴平神社)の総本宮

香川県琴平町に鎮座する「金刀比羅宮」へ参拝しました。

金刀比羅宮は独特の形をした琴平山(象頭山)の中腹に鎮座しています。

いにしえには、琴平山の近くまで瀬戸内の海が迫っていたそうで、

周りに山のない讃岐平野の中では航海や漁業を営む人にとって

格好の目印となっていたそうです。

同時に雨量の少ない環境の中、水を恵んでくれる山でもあり、

航海・漁業・農業・雷・水の神としてこの地の人に信仰されて来ました。

江戸時代になってからは航海技術の発展に伴い金比羅信仰は全国的なものとなります。

伊勢参りと並んで、一生に一度はこんぴら参りといわれ、多くの参拝者が訪れました。

御本宮まで785段、奥社までは全1,368段もの石段が続く長い参道が有名で、

境内入口までは土産物屋・うどん屋・旅館など多くの店が軒を連ね、

現在においても一大観光地でもあります。

表参道

様々な商店が立ち並ぶ賑やかな表参道。

こんぴらさんの表参道では様々なグルメを味わうことができますが、

お楽しみは参拝後にとっておきましょう。

旧金毘羅大芝居(金丸座)

表参道から少し外れた所にある「旧金毘羅大芝居(金丸座)

ここは、天保6年(1835)江戸時代後期に建てられた現存する日本最古の芝居小屋です。

この「金丸座」の名称は明治33年に名付けられました。

昭和45年には国の重要文化財として指定され、この時に名称を旧金毘羅大芝居としました。

(拝観 大人500円・営業時間:9:00~17:00)

一之坂

大門までは特に急な石段となり「一之坂」と呼ばれています。

365段目にある大門の手前左右には「金刀比羅本教総本部」や「鼓楼・清塚」

などの施設、建物があります。

鼓楼・清塚

鼓楼及清塚

平安朝に令名を馳せた作家清少納言は老後四國に渡り当宮にも参り終に此の地におわると云い伝し二百六十年程前宝永七年この鼓楼建築にあたり、その塚石をみいだしました。のち天保十五年今から百三十年前この碑を建つ

鼓楼は朝夕時刻をしらせる時太鼓を備えた高閣である

金刀比羅本教総本部

金刀比羅本教総本部

金刀比羅本教の教祖、金毘羅大権現の第4代別当職 金剛坊宥盛(厳魂彦命)は、遠く東北地方まで国内を巡り、金刀比羅大神様の御神徳を広め、多くの人々の救済に生涯をささげました。金刀比羅本教総本部では、金刀比羅大神様を主祭神とし、教祖立教の志を頂き、全国で信者を教化育成する教師の講習会などを開催しています。 (H.Pより)

大門

大門

大門は金刀比羅宮の総門です。 水戸光圀の兄である讃岐国高松藩主 松平頼重から寄進されました。楼上に揚げられた「琴平山」の額は、有栖川宮熾仁親王殿下の御筆です。大門から先は神域であり、国の名勝・天然記念物に指定され、瀬戸内海国立公園に含まれています。(H.Pより)

大門より

大門から先が、所謂神域といえる場所となり、

この門を潜ると境内で唯一商売を許された五人百姓」の露天があります。

桜馬場

桜馬場

大門から150メートル程続く石畳の道は、桜馬場と呼ばれます。春、爛漫に咲いた桜が道の両側から枝を交えるお花見の名所です。(H.Pより)

大門から先の参道両側では春には桜の花が咲き乱れる桜馬場」と呼ばれる場所。

三の鳥居を潜ると又石段の参道が続き、西詰銅鳥居前の広場へと到着します。

桜馬場西詰銅鳥居

西詰銅鳥居前の広場には可愛い「こんぴら狗」や、二頭の御神馬がいる神馬舎があり、

西詰銅鳥居の上には右側に重要文化財の書院が建っています。

造船会社が奉納した船のプロペラ

現在でも船舶関係の奉納は続いています

神馬舎

神馬舎には2頭の白馬

金毘羅宮 境内案内図

表書院(重要文化財)

表書院(重要文化財)

書院では、江戸時代の絵師である円山応挙の襖絵などを展示しています。襖に描かれているのは睨み合う2頭の虎。ですが、江戸時代の日本には虎がまだいなかったため、応挙は猫を見ながら虎を描いたそう。そのため、猫によく似たちょっぴり愛らしい虎の姿を見ることができます。(H.Pより)

拝観料「一般:800円・高校生・大学生:400円・中学生以下:無料」

書院

書院から先は少しだけ平坦な参道が続き、

左側に建つ木馬舎の前から重要文化財・旭社へと続く石段が始まりますが、

その間には境内社の「祓戸社・火雷社」が祀られています。

ここには笠の上に狛犬を乗せ亀が支えるという珍しい意匠の燈籠が奉納されています。

祓戸社・火雷社

祓戸社・火雷社

祓戸社の御祭神は、瀨織津姫神・速秋津姫神・気吹戸主神・速佐須良姫神です。罪穢を祓い清める神様です。 火雷社には、火産靈神・奥津比古神・奥津比賣神に座して、八衢比古神・八衢比賣神・來名戸神が合祀されています。鎮火・消防の神様、疫病を防ぎ止める神様です。(H.Pより)

旭社(重要文化財)

重要文化財・旭社は、天保8年(1837)に建立された銅瓦葺の二層入母屋造の建物で、

全体に多くの美しい彫刻がみられます。

神仏分離以前の金光院松尾寺の金堂で、そのあまりの豪華さに

江戸時代に参拝した森の石松は、本堂と見誤り、

ここへの参拝のみで帰ってしまったと伝えられています。

旭社
天御中主神 高皇産
霊神 神皇産霊神

天地開闢の神々を祀る
社殿は天保8年(1837年)の建築
二重入母屋造で天保建築の粋をあつめたといわれる

旭社(重要文化財)

旭社の御祭神は、天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・伊邪那岐神・伊邪那美神・天照大御神・天津神・国津神・八百万神です。高さ約18メートルの社殿は、40年の歳月をかけて天保8年(1837)に竣工しました。上層の屋根裏には巻雲が、そして柱間・扉には人物・鳥獣・草花が彫刻されています。どれも稀に見る華麗な装飾です。旭社は、天保時代の芸術の精華を集めた建物なのです。楼上に掲揚された「降神觀」の額は、清国の翰林院侍讀探花及第王文治の筆で、同国の劉雲臺の献納です。「旭社」の扁額は、正二位綾小路有長の筆です。(H.Pより)

下向道

寄進者の名が刻まれた玉垣、圧巻の数です

金刀比羅宮本宮 拝殿

金刀比羅宮本宮

祭神
大物主神

のちに崇徳天皇を合せ祀る
社殿 大社関棟造
明治11年の改築
全檜造りである
農業・殖産・医薬・海上守護の神等
古来衆威にあまねく徳を垂れ神徳を仰がる

御本宮 拝殿

御本宮は、石段785段目、海抜251メートルに鎮座します。御本宮の御祭神は、大物主神と崇徳天皇です。古来から農業・殖産・医薬・海上守護の神として仰がれています。 御本宮の社殿の創建については分かっていません。長保3年(1001)、一條天皇が藤原實秋に勅し社殿を改築したことまでは分かっています。その後、元亀4年(1573)の改築、天正年間(1573-1592)の長曽我部元親による再営を経て、万治2年(1659)の讃岐国高松藩主 松平頼重による改築に至り、明治11年(1878)の改築で現在の社殿となりました。(H.Pより)

金刀比羅宮 由緒
〝こんぴらさん〟の名で親しまれている金刀比羅宮(ことひらぐう)の御本宮は、琴平山(別名「象頭山」)の中腹に鎮まります。
小西可春編「玉藻集(たまもしゅう)」七巻本〔延宝5年(1677)〕の「讃陽名所物産記 第二」には「此山に鎮座三千歳に及と云々。」とあります。「金毘羅山名所圖會」〔文化年間(1804-1818)〕には「金毘羅大権現當山に御鎮座事は、遠く神代よりの事にして、幾百萬年といふ事をしらす。」とあります。
初め大物主神を祀(まつ)り、往古は〝琴平神社〟と称しました。
中古、本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)の影響を受け、「金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)」と改称し、永万元年(1165)に相殿に崇徳天皇を合祀しました。

御祭神 大物主神
大物主神は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の弟、建速素盞嗚命(たけはやすさのおのみこと)の子、大国主神の和魂神(にぎみたまのかみ)で、農業・殖産・医薬・海上守護など広汎な神徳を持つ神様として全国の人々の厚い信仰を集めています。
「神代の琴平山」〔琴陵光熈、金刀比羅宮社務所文事課、昭和16年(1941)〕によると、「神代の昔琴平附近は海岸で、今の琴平の地は良い港であつた。それ故 大物主大神(大國主神)が國土御經營に當り此良地勢を利用せられ山上に行宮を造らせ給ひ、之を策源の中心として表日本を御經營遊ばされたのである。其行宮の蹟に神靈を鎭祭し奉つたのが即ち金刀比羅宮である。」との伝説があります。
つまり、当時、琴平山は瀬戸内海に浮かぶ島であり、そこに大物主神は行宮を造られたのです。
その行宮跡に大物主神を奉斎したと伝えられています。現在も、琴平山の鬱蒼とした樹林の各所には、往古の遺跡と思われる場所があり、境内のそこかしこで大物主神のご偉業が偲ばれます。
また、そのような謂れもあり、今もなお〝海の神様〟として広く親しまれています。

御本宮 本殿

御祭神 崇徳天皇
崇徳天皇〔元永2年-長寛2年(1119-1164)〕は、第75代天皇〔在位 保安4年-永治元年(1123-1141)〕です。諱(いみな)は顕仁です。
保元の乱〔保元元年(1156)〕の後に讃岐国(現在の香川県)にて金毘羅大権現を崇敬し、境内の「古籠所」に参籠されました。また、その附近の「御所之尾」を行宮にされた、と伝えられています。
讃岐国にて崩御された翌年の永万元年(1165)、金毘羅大権現は象頭山(=琴平山)に神霊を迎えて、御本社相殿に「崇徳天皇」として奉斎しました。
崇徳天皇の神霊を奉斎してからの金毘羅大権現の神威は、以前にも増して輝き渡りました。
近世、〝こんぴらさん〟の神威は益々著しく、江戸時代中頃の桃園天皇の御代、宝暦3年(1753)12月、金毘羅大権現を勅願所とすることが仰せ出され、同10年(1760)5月、日本一社の綸旨(りんじ)を賜わり、明治初年(1868)に至るまで毎年春秋の2回、禁中より御撫物(おなでもの)が別当に下賜され、宝祚悠久(ほうそゆうきゅう)を祈願していました。
このように金毘羅大権現は歴朝の尊崇を受け、また、諸国の大名武将から一般庶民に至るまで広く信仰され、全国的な航路の発展とともに航海者の信心を集め、全国に勧請(かんじょう)されて金毘羅講が各地におこり、その神徳はいよいよ高まりました。

御本宮 右手に立つ2基の灯籠

御本宮の右手に立つ2基の灯籠の下部分をよく見ると、ツヤツヤと光っています。

これは、昔からこの灯籠を触ると「へそくり」が増えるといわれており、

灯籠を撫でて帰る人が多いためなのだそうです。

神饌殿

神饌とは神様のお召しが上がり物(食事)のこと

この神饌を備える豪華な建物が拝殿横に(右側)にあります。

舞殿

三穂津姫社

三穂津姫社

本宮御祭神大物主神の后の神三穂津姫の神を
まつる高皇産霊神の御女
社殿は明治9年の建築である

厳島神社

厳島神社

祭神 市寸嶋姫尊

宮島にまつる神と同じ素盞鳴尊の御女
俗に弁財天または弁天と申し音楽を掌り
福徳の神として崇拝せられる

三穂津姫社の向かいにあり、 入母屋造平入・檜皮葺。

展望台より

端正な三角形は飯野山(讃岐富士)標高422m

遠くには瀬戸大橋も望むことが出来ます。

金刀比羅宮本宮 拝殿の右横から奥社への参道が続きます。

御本宮まで785段、奥社 厳魂神社までは1368段、

ここから残り583段、距離にして約1.2キロメートルの道のりです。

奥社(厳魂神社)までの参道に至ると参拝者の数も激減、

静かな参道の途中には境内社が何社かあります。

常磐神社

常磐神社

常磐神社(ときわじんじゃ)の御祭神は、武雷尊(たけいかづちのみこと)と誉田和氣尊(ほんだわけのみこと)です。武雷尊は、神話「天孫降臨」(てんそんこうりん)の武勇の神様です。誉田和氣尊は、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)・神功皇后(じんぐうこうごう)の皇子 応神天皇であり、八幡様として日本全国で広く祀られている鎮守の神様です。(H.Pより)

白峰神社

白峰神社

白峰神社の御祭神は崇徳天皇です。相殿には、御母である待賢門院(たいけんもんいん)と、山の神として信仰されている大山祇神(おおやまつみのかみ)の二柱が祀られています。また、随神として源爲義(みなもとのためよし)と源爲朝(みなもとのためとも)の木像が安置されています。 崇徳天皇は、保元の乱〔保元元年(1156)〕の後に讃岐国にて金毘羅大権現を崇敬し、境内の「古籠所」に参籠されました。また、その附近の「御所之尾」を行宮にされた、と伝えられています。(H.Pより)

菅原神社

菅原神社

祭神
菅原道真命
世に天満宮、天神さまとして広く崇められる神で、
讃岐の国守をもつとめ治績大いにあがり全国広く
祀られ文筆の神、学神として尊崇せられる神さまである

全1,368段もの石段を登りきると「奥社 厳魂神社」へ

この鳥居の手前横からは象頭山 山頂へと至る道もありますが、本格的な登山道となります。

奥社 授与所

奥社 厳魂神社

厳魂神社(いづたまじんじゃ)

祭神 厳魂彦命は当山別当職金剛坊宥盛天下麻
の如く乱れた天正の世、一身を神明に捧げて国家の
安寧又当宮の隆昌整備に努め
広く世をおさめ死して尚当山の守護となるを
誓い慶弔18年正月6日忽然として歿す。
偉大なる徳沢その行状大いに天狗信仰と結ばる

金刀比羅本教教祖 厳魂彦命

金刀比羅宮のご鎮座は神代のころと伝えられ、古くはご祭神大物主の神一柱でした。

永萬元年(1165)崇徳天皇の御霊を合わせ祀ってからは二柱のご祭神になり、社頭は益々にぎわうようになりました。

しかし、室町時代八代将軍足利義政のころになると天下は乱れ、諸国の人々は苦しい生活に追われ、それに加えて年々大風や洪水も続いたので作物が実らず、悪病が流行して死んでしまう人も数多くなりました。

このような時、11年間も続いた応仁の乱が起こり、世は戦国時代へと進んでいきました。

教祖 厳魂彦命はこの戦国時代、生駒家の家臣 井上四郎右衛門の子として生まれ、早くから和漢神仏の学を修め、「宥盛」と称し高野山に入り修行をして第四代象頭山金毘羅大権現別当金光院主となりました。

このころ、当社の境内も荒れはてていましたので、教祖は全身全霊を大神さまに捧げて日夜社頭の復興に心をくだきました。そのかたわら日本国内を巡り民衆を案じいたわり、人の道を説き、金刀比羅の大神さまのご神徳を広め、病者や悩める人々を救いました。

このような教祖の努力によりまして当社に参詣する人々が続々と押し寄せたものの、永く続いた戦いのため民衆が救われることはありませんでした。

慶長18年癸丑正月6日、暗雲たれこめ風雨荒れ狂う日、教祖は金刀比羅の大神さまの力をかりて国内が安らかに治まるよう願い、また自ら神となりて民衆を案じいたわるために〝三代後には生まれ変わって、琴平山を揺るぎ無くしっかりした状態にする〟と予言を遺してお亡くなりになりました。

その後、教祖は神域内の観音堂に祀られ、三代後の宥典別当の時になりますと、予言どおり金刀比羅宮の境内は立派になり益々発展しました。

明治維新後、観音堂が廃止されてからは、お名前を「厳魂彦命」と改め、厳魂神社にお祀りしています。

厳魂神社(奥社)

厳魂神社(奥社)

厳魂神社(奥社)の海抜は421メートル、表参道からの石段の数は全1,368段です。 「奥社(おくしゃ/おくのやしろ)」は通称であり、正式な名称は「厳魂神社(いづたまじんじゃ)」です。金刀比羅本教の教祖である厳魂彦命が祀られています。 厳魂彦命は、戦国時代に生駒家の家臣の子として生まれ、早くから和漢神仏の学を修め、「宥盛」と称して高野山で修行し、象頭山金毘羅大権現別当金光院主となり、戦国の兵火により荒廃した金毘羅大権現の再興に尽力、金毘羅信仰の発展の礎を築きました。 慶長18年(1613)、「死して永く当山を守護せん」と言い残し、天狗と化して忽然と姿を消したと伝えられています。のちに金毘羅大権現の守護神「金剛坊」として祀られました。 厳魂彦命が祀られる厳魂神社は、〝こんぴらさま〟を見守るかのように、現在も御本宮の方角に向けて建てられています。(H.Pより)

讃岐平野を一望

厳魂神社(奥社)の鳥居の手前から象頭山への登山道が整備されています。

途中には素晴らしい展望ポイントもありました。

瀬戸内海国立公園 大麻山園地案内図

瀬戸内海国立公園、山頂部は大麻山園地として整備されています。

芝生や桜も植えられており、観光客も少なく静かなお勧めスポットです。

山頂 龍王社

山頂近くには龍王社が鎮座します。

金毘羅山社有地の杭

象頭山(538m) 山頂

「こんぴら」とはインドの仏法守護神「金毘羅(クンビーラ)」名前から来ています。

金毘羅神しての性格が大物主神と似ていることから習合されました。

インドではクンビーラの宮殿が象頭山とい名の山にあることから、

琴平山も象頭山と呼ばれるようになったといいます。

また、琴平街道から眺めると山容が象の頭に似ているともいわれています。

琴平山(524m)

右からから琴平山〜象頭山〜大麻山 総称して琴平山(または象頭山)

金毘羅宮(御本宮) 御朱印

厳魂神社(奥社) 御朱印

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