第14代 仲哀天皇(惠我長野西陵)・大阪府藤井寺市藤井寺




第14代 仲哀天皇(惠我長野西陵)・大阪府藤井寺市藤井寺

大阪府藤井寺市藤井寺4丁目

第14代 仲哀天皇陵(ちゅうあいてんのう)

恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)・遺跡名「岡ミサンザイ古墳

墳丘長242メートルの前方後円墳で、幅50m以上の周濠が巡らされています。

中世には城砦として利用されていたため部分的に改変されています。

古墳は世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」構成資産とされています。

日本武尊(ヤマトタケル)の子で神功皇后の夫、

通説では実在性の低い天皇の一人に挙げられています。

古事記では「御陵は河内の恵賀(えが)の長江にあり」、

日本書紀には「河内国長野陵」とあります。

第14代 仲哀天皇陵

別名 日本書紀 足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)

誕生 成務天皇18年?

崩御 仲哀天皇9年2月6日

在位 仲哀天皇元年1月11日 – 同9年2月6日

続柄 (父)日本武尊(母)両道入姫命(垂仁天皇皇女)

大足彦天皇(景行天皇)皇子である日本武尊の第二子。母は活目天皇(垂仁天皇)の皇女の両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)。稚足彦天皇(成務天皇)の甥。成務天皇48年に立太子。先帝が崩御した2年後に即位。即位2年、気長足姫尊を皇后とした(神功皇后)。これより前に妃としていた従妹の大中姫命との間に麛坂皇子・忍熊皇子を得ている。再叛した熊襲を討つため親征し穴門豊浦宮に滞在。即位8年、筑紫の橿日宮に至るも熊襲との戦いに敗れる。即位9年には親征先の筑紫で崩御。熊襲の矢に当たったともされる。その10カ月後、皇后が誉田別命(応神天皇)を生んだ。

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