源頼朝公の墓 鎌倉市
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鶴岡八幡宮から10分ほど歩いた所に源頼朝公の墓があります。
中学と小学校の間の住宅街を山側へ進むと鳥居が見えて来ます。
階段前には頼朝を主神とする白旗明神。
鎌倉幕府を築いた源氏の棟梁が眠る場所
源頼朝は、1198年12月27日、妻の政子の妹の夫である稲毛三郎重成が、
亡き妻の供養として相模川にかけた橋の落慶式(開通式)に臨みました。
しかし、馬が暴れて相模川に入ってけがをしたとか、落馬したとか伝えられ、
それが原因となって、翌1199年1月13日、53歳(満51歳)でこの世を去りました。
遺体は頼朝が守り本尊を安置するためにつくった持仏堂に葬られ、
法華堂と呼ばれるようになり、やがて衰微していきました。
江戸時代中期の安永年間、鶴岡荘厳院の僧が勝長寿院跡から石の塔を運んできました。
さらに薩摩藩主、島津重豪(しげひで)が、
1778年、島津氏の祖先の島津忠久の墓をつくる際、頼朝の墓を整備しました
(島津忠久の母は、源頼朝の乳母でした)。
明治時代になって、源頼朝を祭神とする白旗神社が創建されました。
白旗の名は、源氏の軍旗である白旗に由来しています。
源頼朝公の墓
源頼朝は、治承四年(1180)平家打倒のため挙兵、
鎌倉を本拠として元暦二年(1185)に平家を滅ぼしました。
また、鎌倉幕府を大蔵(現在の雪ノ下三丁目付近)に開いて
武家政治の基礎を築きました。
正治元年(1199)に五十三歳で没すると、
自身の持仏堂であった法華堂に葬られ、
法華堂は頼朝の墓所として厚く信仰されました。
法華堂は後に廃絶しましたが、この丘の上一帯がその跡です。
現在建っている塔は、後に島津藩主・島津重豪が整備したものとされます。
階段の中腹に神明系の鳥居