身延山 久遠寺 三門(さんもん)・菩提梯(ぼだいてい)




身延山 久遠寺 三門(さんもん)・菩提梯(ぼだいてい)

身延山久遠寺H.P
http://www.kuonji.jp

山梨県南巨摩郡身延町にある、

日蓮宗の総本山(祖山)久遠寺へ訪れました。

静岡県から新東名、新清水インターから国道52号線を北上、

1時間たらずで来ることができるます。

三門前の派出所横から、

4台しか停めることができない穴場の無料駐車場です。

三門域は身延山の玄関ともいえる場所で、

江戸時代の身延山参詣者は、楼上の十六羅漢を拝して

菩提梯を登っていくことになります。

つまり身延山登詣者が必ず礼拝する場所なので、

身延山ゆかりの人々が信仰の足跡を残している地域でもあります。


身延山 案内図

三門(さんもん)

古く寛永19(1642)年、26世日暹上人のとき、
伏見宮邦房親王の第8王子尊賀院日廷上人が普請奉行として建築されたが、
慶応元(1865)年に焼失し、明治40(1907)年78世日良上人の代に
全国寺院檀信徒の協力を得て再建されました。
関東三大門のひとつに数えられています。
仁王尊は横浜市金沢区六浦の上行寺より
六浦平次郎入道妙法禅門が背負ってここまで運び寄進したという伝説があります。
六浦平次郎は相州荒尾城主播磨守の後身で、
中山法華経寺日佑上人の弟子となり日荷と名を改めたといいます。
楼上には京都の仏師辻井岩次郎作の十六羅漢像がまつられています。
身延山の扁額は79世日慈上人筆です。

仁王様の力で悪の心を召し取る(飯取る)「力しゃもじ」

早朝、誰もいない参道

手前に見える丸石の橋は「解脱橋」・解脱橋東側の橋は「慈済橋

菩提梯までの参道の杉は、11世日朝上人が並木として植えたと

伝えられています。

また石畳の道は、小伝馬町の村雲結社が昭和4年(1929)

日蓮聖人650遠忌の折に修復しています。


宮沢賢治の句碑・本田日生上人銅像

宮沢賢治の句碑

自分も大好きな詩人「宮沢賢治」(1896~1933)が

身延山を詠んだ句が刻まれています。

塵点の劫をし過ぎていましこの妙のみ法にあひまつりしを

賢治は、日蓮主義を説く田中智学の国柱会(こくちゅうかい)に入会し、

法華信仰に入っています。

本田日生上人銅像

本田日生(1867~1931)は明治 大正期の顕本法華宗(妙満寺派)の

最高指導者であると共に、当時の日蓮門下を代表する傑僧。

右側には乃木大将の詩碑もあります。

実長は、身延全山を日蓮聖人に寄進した檀越。

住んでいた地名から波木井公とも呼ばれています。

実長公の尊像は波木井山円実寺にも安置されています。

南部實長公 銅像

日蓮聖人は文永11(1274)年5月17日、
領主南部實長(波木井)公のお招きにより、
この身延のお山にお入りになられました。
實長公は「今生は實長に及ばん程は見つぎ奉るべし、後生をば聖人助け給へ」
とのお約束どおり、日蓮聖人ご在山の9年間一族をあげてご給仕されました。
また、公は「13里に四方の堺を立て今、日蓮聖人に之を寄附す」との置文をして、
身延山を中心とした13里四方を日蓮聖人にご寄附され、
子々孫々に亘り身延山を護ることを戒められ、
永仁5(1297)年 9月25日、76歳でお亡くなりになりました。

菩提は(覚り)梯は(その上の段階に登るための手引き)

という意味だそうです。

階段は289段あり、これを題目7文字で割ると41遍の

題目で割り切れます。

よって題目を唱え登るのが法華信者の信仰活動となります。

菩提梯(ぼだいてい)

26世日暹上人の寛永9(1632)年に、
佐渡の住人仁蔵の発願によって完成したものです。
高さ104mで三門と本堂を一文字に結ぶ287段の石段は、
南無妙法蓮華経になぞらえて7区画に分かれています。
菩提梯とは覚りにいたる梯のことで、この石段を登りきれば、
涅槃の本堂に至ることが出来ることから、
覚りの悦びが生ずることを意味しています。

菩提梯は普段山を登る機会が多い自分もかなりきつい印象でした。

無理をせずゆっくり登るか、体力に合わせ「男坂」「女坂」で向かいたいです。

男坂

菩提梯下から階段を横切りながら登っていく道です。

女坂に比べて急な坂となります。

本堂に至るまでの道端には題目塔が建立されています。

女坂

女坂は男坂に比べて登りやすい道です。

菩提梯下から遺世橋〜文殊稲荷(円台坊)〜甘露門と至ります。

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