猿投神社(さなげじんじゃ)三河国三宮・愛知県豊田市猿投町




猿投神社(さなげじんじゃ)三河国三宮・愛知県豊田市猿投町

猿投神社 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/猿投神社

愛知県豊田市、猿投山の麓に鎮座する三河國三宮にあたる神社。

当社を本社として、猿投山東峯に東宮、西峯に西宮があり、

古来、猿投三社大明神と称されていた。


大鳥居

珍しい黄色の大鳥居


総門

三つの道が交差する場所、猿投山を背にして鎮座します。

猿投神社由緒記

1、創祀・沿革
猿投神社は豊田市の北端にそびえる
三河の名峯猿投山の麓に鎮座する古社である。
創始は社伝によれば仲哀天皇元年勅願により現在の地に祀るとある。
猿投山の東峯に東宮、西峯に西宮を祀り、本社、東宮、西宮を総称して
古くより猿投三社大明神と厚く崇敬されれて来ている。
神階は文徳天皇仁寿元年(851)に従五位下、
陽成天皇元慶元年(877)従四位下に叙位している。
以後記録は絶え、昇叙について明確なことは判らないが、
社蔵神号額(嘉元2年=1304)には「正一位猿投大明神」とあり、
三河国国内神名帳にも「正一位猿投大明神」とあるので、
正一位に昇叙したことが判る。
社格は延喜の制(967)では国幣の小社(三河国26座、賀茂7座)で、
一宮制が施行されるや、砥鹿神社、知立神社についで三河三宮と称された。
明治の新制度では、明治5年県社に列し、広沢天神社(延喜式内社)塞神社、
小猿投社を合祀した(昭和になり広沢天神社は再び広沢の地で祀られるようになる)。
明治中頃より国幣小社昇格を建議し、後年内定したが、
大東亜戦争の終息によりその目的は達せられなかった。
神領は織田・豊臣二氏の先規により徳川家康公が
776石(神社では三河国1位)の朱印を付し、明治維新まで続いた。
此の外の武将も多くの神領を寄進したことが社蔵の寄進状によってしることが出来る。

2、御祭神
主祭神 大碓命  相殿 景行天皇(第12代) 垂仁天皇(第11代)
大碓命は景行天皇の第1皇子で、小碓命(日本武尊)とは同胞双生児である。
日本書紀に、「大碓命が東征を欲せられなかった為に、
美濃国(岐阜県)へ封ぜられ、三野国造の祖神の娘2人を妃とせられ、
2皇子(押黒兄彦、押黒弟彦)を生む」云云とある。
社蔵の縁起書(光仁天皇宝亀10年(779)に大伴家持、阿部東人による調査書)に
「景行天皇52年(122)猿投山中にて蛇毒の為に薨ず、
御年42歳、即ち山上に斂葬し奉る」云々とある。
現在、西宮後方に御墓所がある。この地は古くより御墓所として伝えられて来たが、
明治8年教部省の実地調査の結果、現在地を御墓所と確定し、
以後守部、墓丁が置かれ現在に至っている。

3、大祭
祈年祭(2月17日)初午祭(旧暦2月初午の日)
例祭(10月第2土・日曜日)新嘗祭(11月23日)

4、猿投祭と棒ノ手
古来当社例祭に三河、尾張、美濃3ケ国より献馬の事あり。
旧暦9月8、9両日、3ケ国186ケ村はそれぞれ合宿をつくり、
定められた時刻に境内に於て棒ノ手を奉納した。
甚だ勇壮で血を見なければ納まらないとも言うので、
ケンカ祭、シノギ祭とも称した。
普通には重陽の節句に当たるので「節句祭」と言っている。
8日に山上2社と本社の神輿渡御の神事、9日に例祭式典を斉行し、
午後神輿還御の神事を斉行する。棒ノ手の起源については、
東照軍艦に「天文23年(1554)岩崎城主(現日新町)
丹羽勘助氏次の城下に於いて加賀の住人某が此の技を村民に教え、
技に熟達した者を募り、軍装して猿投神社に奉納す」と記されている。
流派は起倒、見当、鎌田、夢想の4流があり、
その後門人によって34の流派を生じ、3ケ国に広まって行った。
表、裏の両型があり、表型は棒、木刀を用い、
裏型は真剱、槍、長刀、鎌、鎖鎌等の刃物を用う。
かく盛大に行われた猿投祭も明治末頃より次第に
各合宿よりの献馬も少なくなったが、
昭和32年に棒ノ手が県の無形文化財(現在は無形民俗文化財)に指定され、
各地に棒ノ手保存会が結成され、漸時盛大になってきている。

5、宝物
(1)太刀 銘行安(平安時代末期)、黒漆太刀 無銘(鎌倉時代)
(2)樫鳥糸威鎧 付鎧櫃(平安時代)
(3)古文孝経 建久6年(1195)の写本
(4)漢籍1帖19巻 白氏文集等の漢籍
(5)神号額 嘉元2年(1304)
(6)馬面 慶長6年(1601)その他古文書・典籍等有する。

6、神宮寺
神宮寺の開創は社伝によれば、
「天武天皇白鳳年間に勅願によって白鳳寺を建立、猿投山白鳳寺と言う」とあり、
現在境内に白鳳寺塔心礎と言い伝えられているものが残存している。
本社に阿弥陀如来、東宮に薬師如来、西宮に観世音菩薩を本地仏としていた。
神宮寺には多くの僧坊(最盛期16坊)があったが、
明治元年神仏分離令により一切の寺刹は破却され、
現在は跡地のみ存して居る。
神社が多年隆盛を保ち得たことについて社僧の功績を忘れることは出来ない。

7、建造物
本殿、祝詞殿、中門、祈祷所、回廊、神饌所、四方殿、拝殿、太鼓殿、
神輿殿、宝物庫、手水舎、総門、鳥居等が立ちなんでいる。
これらは嘉永6年(1853)の大火によって殆ど鳥有に帰し、
以後50有余年の年月を費やして再建されたものと、
伊勢湾台風後に新築されたものとである。

8、左鎌の由来
古来より左鎌を奉納して祈願する特殊な信仰がある。
其の由来については記録がないので判然としないが、
古老の言い伝えによれば双生児の場合には一方が左遣いの名手であるという。
祭神大碓命は小碓命とは双生児であるので左遣いであらせられ、
当時左鎌を用いて此の地方を開拓せられた御神徳をしたって
諸願の成就を祈るときに左鎌を奉納する。
現在は職場安全・交通安全を祈る会社関係の奉納がさかんである。

9、猿投山とサナゲの語義
社蔵縁起書に「景行天皇53年天皇が伊勢国へ行幸、
常に猿を愛し王座に侍せしむ。猿の不祥あり。天皇憎みて伊勢の海に投げ給ふ。
其の猿、鷲取山に入る。日本武尊東征の時、壮士三河国より来たりて従う。
平定の後、尊に曰く、先に慈恩を蒙れる猿なり。
勅恩に報ずる為、扈従し奉ると言い終って鷲取山に入る。
猿投山の称、是より起こる」とある。標高629米。
山中に天然記念物「菊石」がある。
又、団九郎岩屋、御船石、蛙岩、屏風岩、御鞍石等の伝説豊かな巨岩もある。
サナゲの語義似ついて、文徳実録・延喜式神名帳には共に「狭投」と記し、
三河国国内神明帳・神号額には「猿投」とある。従来の諸説を挙げてみると
(1)前記縁起書にある猿を海に投げたより起こった。
(2)山容が鐸ににているから。
(3)鐸を木の枝につけて祭祀を行った。
(4)大碓命薨去を悲しみ真歎山が猿投山となった、
等の諸説があるが断定はし難い。


参道・ご神木

流鏑馬が奉納されていたという真っ直ぐ伸びる参道


手水舎

猿投神社由緒

御由緒
猿投神社は豊田市の北端にそびえる三河の名峰猿投投山の麓に鎮座する古社である。
創祀は社伝によれば仲哀天皇元年勅願により現在の地に祀るとある。
猿投山の東峯に東宮、西峯に西宮を祀り、本社、東宮、西宮を総称して
古くより猿投三社大明神と厚く崇敬されてきている。
神階は文徳天皇仁寿元年(八五一)に従五位下、
陽成天皇元慶元年(八七七)に従四位下に叙位している。
以後記録は絶え、昇叙について明確な事は判らないが、
社蔵神号額(嘉元二年=一三〇四)には「正一位猿投大明神」とあり、
三河国国内神名帳にも「正一位猿投大明神」とあるので、正一位に昇叙したことが判る。
社格は延喜の制(九六七)では国幣の小社(三河国二六座、賀茂郡七座)で、
一官制か施行されるや、砥鹿神社、知立神社についで三河三宮と称された。
明治の新制度では、明治五年県社に列し、
広沢天神社(延喜式内社)塞神社、小猿投社を合祀した。
昭和になり広沢天神社は再び広沢の地で祀られるようになる。
明治中頃より国幣小社昇格を建議し、後年内定したが、
大東亜戦争の終息によりその目的は達せられなかった。
神領は、織田・豊臣二氏の先規により徳川家康公が
高七七六石(神社では三河国一位)の朱印を付し、明治維新まで続いた。
此の外の武将も多くの神領を寄進したことが社蔵の寄進状によって知ることができる。

元旦祭 一月一日・祈年祭 二月十七日・初午祭 旧二月初の午の日
広沢天神祭 旧二月七日 ・大祓(茅の輪くぐり)六月三十日
例大祭  十月第二土・日曜日・新嘗祭  十一月二十三日
塞ノ神祭  旧十一月七日・大祓  十二月三十一日
月次祭  一日・十五日

左鎌の由来
古来より左鎌を奉納して祈願する特殊な信仰がある。
其の由来については記録かないので判然としないが、
古老の言い伝えによれば双生児の場合には一方が左遣いの名手であると言う。
祭神大碓命は小碓命とは双生児であるので人々が命は左遣いであらせられ、
当時左鎌を用いて此の地方を開拓せられた御神徳を暮って
請願の成就を祈る時に左鎌を奉納する。
現在は職場安全・交通安全祈願を祈る会社関係の奉納かさかんである。

猿投山とサナゲの語義
社蔵縁起書に「景行天皇五三年天皇が伊勢国へ行幸、
常に猿を愛し玉座に侍せしむ。猿の不祥あり。
天皇にくみて伊勢の海に投げ給ふ。其の猿、鷲取山に入る。
日本武尊東征の時、壮士三河国より来りて従う。
平定の後、尊に曰く、先に愁思を蒙れる猿なり。
勅思に報ずる為、扈従し奉ると言い終って鷲取山に入る。
猿投山の称、是より起る」とある。
標高六二九米。山中に天然記念物「菊石」がある。
又、団九郎岩屋、御船石、蛙岩、屏風岩、御数石等の伝説豊かな巨岩もある。
サナゲの語義について、文徳実録・延喜式神名帳には共に「狭投」と記し、
三河国国内神明帳・神号額には「猿投」とある。従来の諸説を挙げてみると
前記縁起書にある猿を海に投げたより起こった。
山容か鐸に似ているから鐸を木の枝につけて祭祀を行った。
大碓命薨去を悲しみ真嘆山が猿投となった。
等の諸説があるか断定はし難い。

祈祷の御案内
受付時間九時~十六時
家内安全  職場団体安全  交通安全  初宮詣  七五三詣  厄除祓
安産等を奉仕しております。

御祭神
主祭神
大碓命
相殿
景行天皇(第十二代)
垂仁天皇(第十一代)

大碓命は景行天皇の第一皇子で、小碓命(日本武尊)とは同胞双生児である。
日本書記に「大碓命が東征を欲せられなかった為に、
美濃国(岐阜県)へ封ぜられ、三野国造の祖神の娘二人を妃とせられ。
二皇子(押黒兄彦、押黒弟彦)を生む」云々とある。
社蔵の縁起書(光仁天皇宝亀十年(七七九)に大伴家持、阿部東人による調査書)に
「景行天皇五二年(一二三)、猿投山中にて蛇毒の為に薨ず、
御年四二歳、即ち山上に斂葬し奉る」云々とある。
現在、西宮後方に御墓所がある。この地に古くより御墓所として伝えられて来たが、
明治八年教部省の実地調査の結果、現在地を御墓所と確定し、
以後守部、墓丁が置かれ現在に至っている。


社務所


拝殿


太鼓楼


拝殿


四方殿


中門


祈祷所

社殿右手に並んだ境内社の祈祷所


御手洗乃瀧


御朱印

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