皇后聖子(崇徳天皇皇后)月輪南陵・京都府京都市伏見区深草車坂町




皇后聖子(崇徳天皇皇后)月輪南陵・京都府京都市伏見区深草車坂町

藤原聖子 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/藤原聖子

鳥羽街道駅の東方、仲恭天皇陵への参道の途中に

藤原聖子(キヨコ)・皇后聖子(崇徳天皇皇后)月輪南陵があります。

皇后聖子(崇徳天皇皇后)月輪南陵

被葬者
皇后聖子(崇徳天皇皇后)
陵名
月輪南陵(つきのわのみなみのみささぎ)
陵形
円墳
所在地
京都府京都市伏見区深草車坂町
最寄駅
鳥羽街道駅(京阪本線)

藤原聖子(キヨコ)

生没年
保安3(1122)年~養和元(1182)年
院号
皇嘉門院
続柄
崇徳天皇皇后/(父)藤原忠通、(母)藤原宗子

崇徳天皇の女御となり、中宮に立后。
しかし、父忠道の期待に反し、子女は一切生まれなかった。
これゆえ、崇徳天皇の異母弟躰仁親王を養子とし、
躰仁親王が近衛天皇として即位すると、皇后は皇太后となり、
皇嘉門院の院号宣下を受け女院となった。
しかし、近衛天皇が崩御すると崇徳上皇側と後白河天皇側に分かれた、
摂関家、武家を巻き込んだ争乱がおこり、崇徳上皇側は敗北、
上皇は讃岐に入るとなった(保元の乱)。
このことにより、勝者忠道の娘、そして敗者崇徳天皇の皇后であった
皇嘉門院は板挟みの立場となったが、崇徳上皇には同行せず、
忠道の後ろ盾によって、朝廷では重用されたという。
なお、崇徳天皇との仲は一般的には疎遠であったとされているが、
保元の乱以前はよくお互いの宅に通い合っていたという。
61歳で崩御した。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加