彦根城(ひこね じょう)・滋賀県彦根市金亀町(国宝彦根城 その魅力と防御陣形)




彦根城(ひこね じょう)・滋賀県彦根市金亀町(国宝彦根城 その魅力と防御陣形)

彦根城 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/彦根城

彦根城(ひこねじょう)は、日本の滋賀県彦根市金亀町にある

標高約136m(比高46m )の平山城

日本の100名城で、国宝5城の一つに数えられます

天守 附櫓及び多聞櫓が国宝・城跡は国の特別史跡

琵琶湖国定公園第1種特別地域に指定されています。


中堀

そもそも彦根には、石田三成の居城であった佐和山城がありましたが、

1600年の関ヶ原の戦いの後 徳川四天王の一人 井伊直政が18万石で入城します。

井伊直政は、賊将・石田三成の佐和山城を嫌ったとか、

領民から大変慕われていた石田三成の遺構を破却し新しい政治を行おうと、

琵琶湖に近い磯山に彦根城の築城を計画します。

佐和山城(さわやまじょう)の記事

井伊大老歌碑

直弼は、埋木舎時代より文武に励み、
いずれもその道を極めていきます。
和歌においても秀で、自作の和歌集を編纂したほどでした。

あふみの海 磯うつ波の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな

安政7年(1860年)の正月に直弼は正装姿を、お抱え絵師狩野永岳に描かせました。
江戸に取り寄せた自画像に、賛して和歌をしたため、
井伊家の菩提寺である清凉寺に納めました。
碑文は直弼の直筆を写し取ったものです。
「琵琶湖の磯うつ波が、打ちくだけてはひき、
また打ちくだけてはひくことを何回も繰り返しているように、
大老就任以来難問が何回となく押し寄せてくる。
しかし、わたしは国の平和と安心を願って、
全身全霊を尽くして心を砕いてきたので悔いは残らない」
歌には、直弼のこんな心情が詠まれています。
2ヶ月後の3月3日、直弼は桜田門外で水戸浪士らの凶刃に倒れます。
開国に揺れ動いた時代の中で、自身の信念を貫こうとした直弼の、
まさに辞世の句とされています。
直弼の姓に藤原とあるのは、井伊家の初代当主共保が藤原氏後裔の氏族の養子で、
元は藤原姓を名乗っていたことにちなんでいます。


二の丸佐和口多聞櫓


どんつき

佐和口多聞櫓の入り口を進むとすぐ、右へ急カーブしています。

このような構造を「枡形虎口」といい、敵に一瞬行き止まりかと思わせて侵入を防ぎます

彦根では「どんつき」と呼んでおり、城内だけではなく市街地にもいくつか見られます。

二の丸佐和口多聞櫓(重文)

中堀と内堀の間に配置された「二の丸」の入り口の両側に並んでいる櫓です。
当時は両側の櫓の間には佐和口門という櫓門があり、
左右の櫓がこの門でつながっていたといい、今も路上にその門の基礎が残っています。
(多聞櫓:細長い様式の建物で武器の倉庫などに用いられる他、
防壁の役割も果たすため防御上、重要な場所に建てられることが多い。)
向かって左側の櫓は1767年の火災により焼け、1769~1771年にかけて再建されました。
右側は1960年に井伊大老開国百年事業で復元されたものです。

元祖ゆるキャラの「ひこにゃん」

彦根城域では1日3回ほど、毎日「ひこにゃん」が出迎えてくれるそうです。


井伊直弼像

玄宮園から出た辺り二の丸駐車場、途中の桜場駐車場脇に

井伊直弼像・石碑(遠城謙道)が建っています。

井伊直弼(1815-1860)

開国の英雄井伊直弼は、文化12年(1815年)に彦根城下の下屋敷(槻御殿)に生まれ、
嘉永3年(1850年)36歳で彦根藩主となり、安政5年(1858年)には江戸幕府の大老職となった。
同年6月、直弼は我国の将来を考えアメリカとの開国を英断。
この大偉業をなしとげた直弼は、心情をくむことのできなかった人々によって
安政7年(1860年)3月3日桜田門外で暗殺され46年の生涯に幕を閉じた。

馬屋(重文)

藩主などの馬21頭を常時、使用できるように収容していた建物で、
当時は現在の売店まで延びていたようです。
近世の城郭に馬屋は必ず設けられていたということですが、
全国に残る大規模な馬屋としてほかに例がありません。

新日本観光地百選の一つ

琵琶湖八景「月明彦根の古城」として名高い


表門橋

明治初期の写真や当時の文献を参考に、

3年の歳月をかけ平成16年2月完成現在に蘇った表門橋

橋を渡り管理事務所へ

彦根城

この彦根城は、慶長5年(1600年)井伊直政が、
関ヶ原の戦いに徳川四天王の一人として抜群の功をたて、
この戦いに敗れた石田三成の居城 佐和山城を与えられ、
慶長6年(1601年)上野の国高崎城から佐和山城へ移ってきた。
その後、直政は城を彦根山に移そうと考えたが実現せず病死、
慶長8年(1603年)その子直継が父直政の遺志をうけて
彦根城の築城に着手した時の将軍家康は特に奉行を差し向け
7ヶ国12大名にも応援させ、元和8年(1622年)現在の彦根城が完成、
築城をはじめてから実に20年の年月を要したもので、
城地面積約0.25km2(75,800余坪)周囲約4km(1里)
高さ約50mの彦根山に築城した平山城である。
昭和26年(1951年)に彦根城天守閣をはじめ
天秤櫓・太鼓門櫓・西の丸三重櫓・佐和口多聞櫓を重要文化財に指定され、
さらに同27年(1952年)には天守を国宝に、
同31年(1956年)には彦根城一帯を特別史跡に、
同38年(1963年)に馬屋を重要文化財にそれぞれ指定されている。
新日本観光地百選の一つとして琵琶湖八景「月明彦根の古城」として知られている。

登り石垣

彦根城には、全国的にも珍しい「登り石垣」が5箇所に築かれています。
登り石垣は、文字通り山の斜面を登るように築かれた石垣です。
斜面をよくみると高さ1mほどの石垣が鐘の丸に向かって
伸びているのが分かります。
石垣の向かって左側が溝状に窪んでいるのは「竪掘(たてぼり)」で、
登り石垣とともに斜面を移動する敵の動きを阻止する目的で築かれました。
かつてこの石垣の上には、さらに瓦塀が乗っていたようです。
登り石垣は、豊臣秀吉が晩年に行った朝鮮出兵の際、
朝鮮各地で日本軍が築いた「倭城」において顕著に見られえる城郭遺構です。
日本では洲本城(兵庫県)や松山城(愛知県)など
限られた城にしか見る事ができません。

彦根城観覧 料金

彦根城(内堀より内側)・玄宮園の観覧には入場料が必要です。
表門、大手門、黒門、玄宮園、開国記念館前のいずれかの券売所にて
入場券をお求めください。

営業時間
8:30~17:00 (年中無休

料金
彦根城・玄宮園セット入場券
大人/800円 小・中学生/200円
彦根城・玄宮園・博物館セット券
大人/1,200円 小・中学生/350円
玄宮園のみ
大人/200円 小・中学生/100円
彦根城博物館のみ
大人/500円 小・中学生/250円
彦根城管理事務所


表御殿(彦根城博物館)

表御殿(彦根城博物館)

彦根藩の政務が行われ、また藩主が日常生活を送っていたのが表御殿でした。
廃城令により明治年間に解体されましたが、発掘調査を経て
1987年に彦根城博物館として復元されました。
政務が行われてきた「表向き」は外観のみが復元され、
内部は井伊家に伝わる美術品や古文書などを常設展示、
定期的に企画展が催されています。
藩主のプライベート空間であった「奥向き」は当時さながら忠実に復元されています。
館内の能舞台は江戸時代の表御殿の中で現存する唯一の建物です。
明治以降、他の場所に移されていましたが、表御殿復元の際、戻されました。


堀切

入城券売り場から表門山道を登ると間もなく堀切に至ります。

堀切とは尾根を垂直に切るように人力で築いた空堀

通常、城の入り口を大手門といいますが、

彦根城には城の表門と構造上の大手門があります。

どっちから侵入しても敵は最初に必ずここに至り、

堀の上の太鼓丸と鐘の丸から攻撃を受けます。

西の丸と出曲輪の間にも堀切が現存しています。


落とし橋

鐘の丸と太鼓丸にかかる廊下橋は、

敵が侵入した時は落とされた落とし橋でした。

大手門からと表門からの山道がここで合流するため重要な防御策でした。


鐘の丸

鐘の丸前にはトイレや売店

当時は大広間御殿 御守殿があったそうです。

表御殿跡で発見された絶滅寸前の貴重な植物

「おおとっくりいちご」が植樹されています。

鐘の丸

築城当時、時報鐘を置いていたのでこのような名称になっており、
鐘は音がよりよく城下に響くように現在地に移されました。
鐘の丸を通らなければ本丸へとは進めない縄張りであるため、
城内の中で一番堅固な郭だと言われています。
大広間御殿と御守殿の二つの建物がありましたが、
大広間御殿は享保17年(1732)江戸屋敷の広間として移されました。
御守殿は徳川二代将軍秀忠の娘の宿舎として建てられますが、
順路変更で実際は泊まりませんでした。
以後はそのまま保存し、武具の虫干しに使用したとの記録が残っています。
明治維新後に大津に移築して戦後に焼失してしまいました。
維新前までは水が湧いていたと言う空井戸は抜け穴だと言われたこともありましたが
、飲み水として使用されたようです。

天秤櫓(重文)

表門と大手門からの山道が合流する要の位置に築かれた櫓で、
文字通り、天秤のような形をしています。
均整のとれた美しさと堅固さを併せ持つ、他に類例がない櫓です。
廊下橋から見て中央の門の右側と左側の石垣を見比べてみてください。
右側は築城当時の牛蒡積(ごぼうづみ)で、
左側は1854年に大改修の際、積み替えられた落とし積みです。

右側、築城当時の牛蒡積(ごぼうづみ)の石垣

左側、1854年に大改修の際、積み替えられた落とし積みの石垣


天秤櫓を抜け

天秤櫓

天秤櫓は、鐘の丸から渡された廊下橋が多聞櫓の中央に開かれた城門に架けられ、
左右に二重二階の隅櫓を配し、天秤のように左右バランスがとれている構図をもつ櫓です。
慶応8年(1603)から11年(1606)にかけて建立されたもので、
長浜城の大手門を移建されたと考えられています。
門のその後については、宝永3年(1706)、天明4年(1854)、明治(1892)に
それぞれ修理が行われています。
このうち寛永の修理がもっとも大規模で、このとき中央部より西側はすっかり改造されています。
このとき石垣も積替えられており、東半分が古式の牛蒡積みであるのに対し、
西半分は新式の落し積みとなっています。
鐘の丸から渡された廊下橋は、往時、両側に壁があり、
屋根をもった橋で、中の人の動きが外から見えない構造になっていました。


時報鐘

時報鐘

築城当時は鐘の丸にありましたが、
音が遠くまで響くようにと現在の位置に移されました。
12代藩主井伊直亮の時代により音色の美しい鐘にするために
小判を入れて造られたと伝えられています。
今も定時に鐘がつかれ、その音色が「日本の音風景百選」に選ばれています。
毎年12月31日には誰でも参加できる「除夜の鐘をつく集い」が行われています。


続櫓


太鼓門櫓

太鼓門櫓(重文)

本丸への入り口を固める最後の関門で、
緊急を知らせるための太鼓をおいたことからこの名が付きました。
東側の壁が取り払われ、柱との間に高欄をつけ、
廊下にした珍しい構造になっています。
太鼓の音をより大きく響かせるためだという説もありますが、定かではありません。
昭和年間の解体修理の際、行われた調査で
どこかの城の城門の規模を小さくして移築されたということが分かりました。
ただ、それがどこの城かということは未だに解明されていません。
正面左側の石垣にもご注目ー自然の大きな岩をそのまま石垣に使用しています。

太鼓門櫓及び続櫓(重要文化財)
桃山時代 昭和26年9月22日指定

本丸の表口を固める櫓門。
築城時に他の城から当初に移築されてきた建物です。
櫓門としては珍しく、東側の壁が無く、柱の間に高欄をつけ廊下としています。
登城合図用の太鼓の音を響かせるために考えられたのではないかといわれています。

太鼓門櫓を抜け階段を登ると本丸広場へ

着見台(月見櫓跡)

表御殿の背後には、かって9.8m(5間)に10.6m(6間)の二重櫓があって
着見台(月見櫓)があった。
この辺りは城内で最も高処に近く、石垣に向って階段状に上る石段となっている。
此処は、月見台ともいわれ、東の山から上る月を見るのに、此の上なき処であったと思われる。
また城門お佐和口及び京橋口の看視に当たり、城門へ到着する早出、早馬、行列の先触などを
いち早く発見して役人に連絡したのである。
明治初年に櫓はとりこわされ、いまは展望台として眺望はよく、
中秋の名月の夜のながめはすばらしいものがある。

着見台より彦根市街地

佐和山城跡と奥に鈴鹿山脈

琵琶湖を望む


天守閣

彦根城 天守(国宝)

牛蒡積みの石垣に築かれた三階三重の天守に付櫓が附属する
「複合式」という形式です。
付櫓は現在、天守への出入り口になっていますが、
当時は別のところにあった入り口に侵入しようとする敵を
側面から攻撃するための施設でした。

本丸跡

天守の前には、御広間(おんひろま)や宝蔵(ほうぞう)
矢櫓・着見櫓(つきみやぐら)などが築かれていたが、
天守以外の建物は明治になって取り壊された。
御広間は、東西に長く南北約12m(6間)に東西約30m(15間)で、
台所と局(つぼね)が付設されており、表御殿が山麓に営まれるまでの
江戸時代初期は藩主の居館となっていた。

天守閣内部へ、梁が凄いです。

狭間/さま

天守の壁に設けられた小さな攻撃用の穴を狭間と言います。
狭間には弓を射る「矢狭間/やざま」と
火縄銃を放つ「鉄砲狭間」があります。
矢狭間は縦長の長方形、鉄砲狭間は三角形(鎬狭間/しのぎさま)や
長方形に近い方形(箱狭間)に切られています。
これらの狭間は、いずれも板枠を壁に埋め込んで製作しますが、
彦根城天守では外面を壁土で塗り塞いで敵を欺く「隠し狭間」となっています。
各狭間の高さは、矢狭間が弓の丈の関係で比較的高い位置に切られているのに対して、
鉄砲狭間は火縄銃を座ったり伏せた姿勢で射撃するため、
概して低い位置に切っています。
また各狭間の間隔は、1間(約2m)に1つずつ配置する例が多いのですが、
彦根城天守では、より密に半間(約1m)に1つとしています。


破風の間

破風の間

彦根城天守は、規模は比較的小振りですが、
屋根に多様な破風が設けられているのが特長のひとつです
これらの破風内には、破風の間という小部屋を設けているものがあります。
破風の間には、鉄砲狭間が切ってあり、防御のための小空間となりました。
破風の間は、その下屋敷の軒近くまで突き出ているので、
屋根面による死角が少なく、防御には有効でした。

天守の破風の間
隠し部屋とも称される破風の間には、鉄砲狭間が切られている。

破風の間より

天守の形式

主に4種に分類される。
(1)独立式:天守のみが建つ。
(2)複合式:天守に付櫓が附属している。[彦根城・犬山城]
(3)連結式:天守と小天守を渡櫓でつないでいる。
(4)連立式:天守と小天守3棟を渡櫓でつないでいる。[姫路城]

内部の階段は90度に近い角度の、特に降りるのが恐い階段です。
スカートの方は要注意です。
これも敵が登りにくいようにしたためだと思いますが、
ここまで攻められたら藩主も覚悟を決めなければなりませんね。
ただ、彦根城が完成してからは戦が行われませんでしたから、
このような備えが活用されることはありませんでした。
彦根城天守は全階を一本で貫く「通し柱」を用いないで、
各階毎に積み上げていく形式をとり、揺れに備えています。
天井を見上げていただくと、梁行に対して桁行が2倍近くあります。
つまり、長方形の天守で、正方形に近い形をしているのが多い中で
珍しいということです。
彦根城天守は立面だけでなく、平面にも特長を持っているということですね。
外から見ると東西面は鋭い雰囲気を持ち、南北面は重厚な安定感を持っています。
ですから、東西南北どの方向から見てもべっぴんさん(男前?)なんです!
彦根城は三階三重の比較的小さな建物にもかかわらず、
装飾が巧みにバランスよく施された、美的完成度の高いお城です。
それが、国宝に指定された理由の一つです。

国宝彦根城天守

彦根城と城下町の建設は、
今からおよそ400年前の慶長9年(1604年)に始まり、
20年近い歳月をへて完成しました。
その中心をなしたのが、天守のある本丸です。
現在の本丸には天守の建物しか残っていませんが、
かつては藩主の居館である「御広間」や「宝殿」、
そして「月見櫓」なども建っていました。
天守は3階3重、つまり3階建て3重の屋根で構成されています。
規模は比較的小ぶりですが、屋根は「切妻破風」「入母屋破風」「唐破風」
を多様に配しており、2階と3階には「花頭窓」、
3階には高欄付きの「廻縁」を巡らせるなど外観に重きを置き、
変化に富んだ美しい姿を見せています。
天守の建物構造は、通し柱を用いないで、
各階ごとに積み上げていく方式をとっており、
全体として櫓の上に高欄を付けた望楼を乗せる古い形式を残しています。
昭和32年から35年にかけて行われた解体修理により
墨雲のある建築材が発見され、天守の完成が
慶長12年(1607年)ころであることが判明しました。
また建築材を克明に調査した結果、
もともと5階4重の旧天守を移築したものであることも分かりました。
彦根藩主井伊家の歴史を記した「井伊年譜」には、
「天守は京極家の大津城の殿守也」とあり、
彦根城の天守が大津城(滋賀県大津市)の天守を移築した可能性が考えられています。
戦争とともに発達したお城ですが、彦根城は一度も戦争を経験することなく
平和な江戸時代を迎えました。
江戸時代には藩主が天守を訪れることも余りなく、
天守には歴代藩主の甲冑などが収納されていました。
江戸時代の天守は、軍用建築というよりも、
城下から見上げる彦根藩の象徴という役割を担っていたようです。


西の丸三重櫓

西の丸三重櫓(重要文化財)

西の丸三重櫓は、本丸に隣接する西の丸の西北隅に位置し、
東側と北側にそれぞれ1階の続櫓を「く」の字に付設しています。
小谷城天守を移したと伝えられている三重櫓には、
天守のように装飾的な破風などはありませんが、
櫓全体を総漆喰塗りとして、簡素な中にも気品のある櫓です。


大堀切より 西の丸三重櫓

西の丸三重櫓のみどころ


西の丸は、三重櫓と東側の多聞櫓、
西側の多聞櫓からの続櫓で防御されている。

三重櫓の三層部分は、監視と見張り用に窓が設けてあり、
一、二層は攻撃用として城外側だけに窓がある。
言い換えれば、攻めてきた相手を攻撃する櫓と言える。

彦根城内には三つの三重櫓があり、
西の丸三重櫓(天守・山崎郭)はその1つである。

西の丸三重櫓は、嘉永6年(1853年)大修理され、
柱や梁の8割近くが移築時のものから
江戸時代後期のものに取り替えられている。

移築時の立証として転用材が、
階段の床板や側柱等にほぞ穴痕が残っている。

西の丸三重櫓は、湖上からの攻撃や裏門からの要塞として、
堅堀・登り石垣や廊下橋の縄張りも施されている。

彦根藩筆頭家老の木俣土佐守も常時三重櫓に詰め、
湖上の警備・監視に努めている。

山崎郭方面に向かうため桝形になっている道を下り、

大堀切に架かる橋を渡ります。


大堀切

大堀切と出郭(でぐるわ)

西の丸三重櫓の外には、裏手からの敵の侵入を阻止するため、
尾根を断ち切るように大堀切が設けられている。
大堀切に掛かる木橋の外にあるのが「馬出し」の機能を持った出郭である。
「井伊年譜」には、この出郭の石垣は、石工集団として知られる
穴太衆(あのうしゅう)が築いたと伝えられている。

山崎山道を下り黒門橋へ

黒門橋前の案内板

ここから先、玄宮園・楽々園に関しては、

別のページにて続けてご紹介します。


玄宮園

玄宮園 楽々園・彦根城の大名庭園の記事

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