松本城(まつもとじょう)・長野県松本市丸の内




松本城(まつもとじょう)・長野県松本市丸の内

松本城 / Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/松本城

北アルプスの麓、長野県松本市にある国宝「松本城」

今でもかつての状態のまま天守が残っている「現存天守」はわずか12

そのうち国宝5城のうちの一つに数えられます

中でも五重天守をもつ城は松本城と姫路城だけで、

松本城は現存する日本最古の五重天守なのです。

松本城

時間
8時30分~17時00分(最終入城16時30分)
※時期により変動あり
休日
12月29日~31日
料金
大人610円・小中学生300円
住所
長野県松本市丸の内4-1
電話
0263-32-2902
H.P http://www.matsumoto-castle.jp

天守とその構造

松本城天守群は、大天守(だいてんしゅ)・乾小天守(いぬいこてんしゅ)
渡櫓(わたりやぐら)・辰巳附櫓(たつみつけやぐら)
月見櫓(つきみやぐら)の五棟で形成されています。
大天守と乾小天守を渡櫓によって連結し、
辰巳附櫓と月見櫓が複合された連結複合式の天守です。
これらの天守群は、昭和4年(1929)に制定された「国宝保存法」により、
昭和11年(1936)4月20日国宝に指定されました。
『國寶略說』(昭和11年度 文部省宗敎局)には
「・・・當天守ハ大小天守ヲ渡櫓ヲ以テ繋ゲルモノデ、
所謂聯立式天守ノ稀有ナル例デアリ、
名古屋城天守ノ先驅ヲナスモノデアル。・・・」と記されています。
そして、戦後昭和25年(1950)に制定された「文化財保護法」により
昭和27年3月29日再び天守五棟が国宝に指定されました。

国宝 松本城 – 松本城をより楽しむ公式H.P

平城

松本城は標高590メートルの盆地内平地に位置しています。
平地に築かれた平城です。
城郭を囲む三重の水堀と土塁・石垣、出入り口や土塁の上に櫓や城門などを備えていました。
三の丸内に武士を居住させて、防備を固めていました。

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現存する天守12城のうち五重六階の天守としては日本最古の天守

松本城 現存する天守12城のうち五重六階の天守としては
日本最古の天守。大天守と乾小天守、その両者をつなぐ渡櫓は、
戦国時代末期に築造され、辰巳附櫓と月見櫓は、
江戸時代初めに造られたと考えられています。
豊臣秀吉の家臣、石川数正・康長父子により創建された
大天守・乾小天守・渡櫓は、文禄2~3年(1593~4)にかけて
築造されたというのが松本市の公式見解です。
これら三棟は、江戸の家康を監視する城として、
甲府城・高島城・上田城・小諸城・沼田城とともに
秀吉側の城主が配置された江戸包囲網のひとつの城といわれています。

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戦国末期の戦いのための天守と
平和な時代の優雅な櫓とにより造られている

戦国大名が領国をめぐる争いを繰り返してきた戦国時代、
常に敵と戦い、敵から領国を守ることを念頭にした
戦略拠点としての性格が強く、強固な城が造られました。
松本城の大天守・渡櫓・乾小天守は、こうした時代の末期に、
関東の徳川家康の監視という役割を負って築造されました。
このように戦いを想定した備えとして、
この三棟には、鉄砲狭間(さま)・矢狭間という弓や
鉄砲を放つための小さな窓を115か所設置し、
一階壁面の一部を外に張り出してその床面を開け蓋をつけた、
鉄砲を撃つための石落を11か所設けています。
天守の壁は一・二階で約29センチメートルと厚く、
また内堀幅を火縄銃の高い命中精度が維持できる
ぎりぎりの約60メートルとして、鉄砲戦の備えを持っています。
このように戦うことを想定した備えをもつ
大天守・渡櫓・乾小天守の三棟が戦国時代末期に、
それから40年後の江戸時代初期の平和になった時代に、
戦う備えをほとんどもたない辰巳附櫓・月見櫓の二棟が建てられ、
異なる時代にわたって建築されました。
それぞれ結合された天守・櫓が複合しているのが松本城です。
戦国期と江戸期という性格の違う時代の
天守・櫓が複合された天守群は我が国唯一で、
松本城の歴史的な特徴のひとつです。

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黒門

■ 黒門

二の門と枡形

二の門と枡形

内堀を渡ったところにある門で、高麗門です。
平成元年11月、この門とこれに続く控塀(ひかえべい)がつくられ、
枡形が復元されました。
この控塀には狭間(さま)が切られ、
対岸の敵に備えて火縄銃で攻撃できるようになっています。


一の門

一の門

本丸へ入る重要な入り口です。
この門を入るとかつては本丸御殿がありました。
本丸御殿に通じる格調高い正式な門という意味で、
当時の最高の色調である黒の名を冠して「黒門」と呼んだと考えられています。
門の屋根を見上げると歴代城主の家紋の付いた軒丸瓦が見られます。
これは昭和25年~30年に行われた天守解体修理の際、
まだ使える瓦を保存して再利用したからです。
その瓦を昭和35年、黒門一の門復興の折に使用したため、
いろいろな城主の家紋の付いた軒丸瓦が見られます。
この黒門の設計図がなかったため、設計を依頼した市川清作氏が、
名古屋城の渡り櫓門を参考にしたと言われています。

本丸御殿跡

本丸庭園の中に、瓦を使って仕切りをしてある部分が本丸御殿です。
主要建物は五棟、部屋数は60余り、建坪は830坪(約2,730平方メートル)。
御殿の周囲をめぐる塀は長く続いて、
西では天守側と北では内馬場側を区切っています。
天守築造と同時に建設されたと推定されています。
藩の正政庁で、城主の居館でしたが、
享保12年(1727)閏正月朔日火事により焼失しました。
この時の城主は戸田光慈で、その前年享保11年(1726)、
鳥羽から入封してまもなくのことでした。
その後御殿は再建されることなく、
城主の政務を司る場所は二の丸御殿に移りました。
御殿の南側には、御舞台、大書院、大広間等があり、
能を鑑賞したり、評議をしたり、儀礼・謁見・接客等したりする所、
また真ん中あたりには、御老中部屋、御用人部屋、御老中物書部屋等、
藩の重臣達が執務をする場所になっていました。
また北側には、御居間、御寝間、御近習番所等が配置されていて、
城主の私生活をする場所でした。さらに北側には料理人等の部屋や物置が、
玄関の北、東側には台所が続いていました。
中庭の北には、「御時計ノ間」があり、和時計が置かれて時を計り、
太鼓楼に知らせていたのではないかと考えられています。


花頭窓


月見櫓


駒つなぎの桜

駒つなぎの桜

加藤清正が城見のために松本城を訪れた時に
駒をつないだという話を伝える桜です。
城内にあった老木が「駒つなぎの桜」「御殿桜」と呼ばれていたという伝承があり、
昭和30年代後半から昭和40年代前半に、
現在の位置に幼木が植えられ、現在の大きさに育ちました。


二の丸御殿跡

二の丸御殿跡

本丸御殿と二の丸御殿は、文禄3年(1594)頃に
竣工した天守に続いて建てられたと考えられていますが、
「河辺文書」の寛永10年(1633)の記事に
「二之丸江御殿立・・・」とあり、二の丸御殿の建造に松平直政
(寛永10(1633)~寛永15(1638)年の間松本城城主)
が関わっていたとも考えられています。
敷地は約1,900坪(6,270平方メートル)、
建坪は約600坪(1,980平方メートル)、部屋数は約50ありました。
本丸御殿があったときは、二の丸御殿は副政庁として機能していました。
本丸御殿焼失後にそのすべての機能が二の丸御殿に移されましたが、
本丸御殿の3分の2ほどしかなく狭いため、享保12年(1727)3月には、
二の丸にあった郡所、町所を六九町へ、
大名主・大庄屋の役人会所を上土に移しています。
正式の入り口は南側正面の式台と玄関で、東側のほぼ中間に内玄関がありました。
式台から上がった左手に広間があり、
その奥に書院とそれに付属する部屋がありました。
規模は小さいですが、本丸御殿と同様の仕組みです。
本丸御殿ではこの奥が政治向きの場ですが、
二の丸御殿では藩主の居所になっていて
政治向きの場は藩主の居所の奥に設けられています。
政治向きの場には、年寄・用人・元鎮といった重臣がつめる部屋と
その書記役等の部屋がありました。
台所は北東側に広がっていて、台所の水は掘り井戸と
地蔵清水の井戸から樋により引いてきた水を溜めておく井戸がありました。
明治になり御殿は筑摩県庁として使われていましたが、
同9年(1867)6月19日午前3時半頃出火して全焼しました。
昭和54年から発掘調査をし、
御殿跡を平面復元して見学できるようにしてあります。

■ 太鼓門


太鼓門

玄蕃石

松本城 玄蕃石
松本城最大の石で、重さ約22.5トン(玢岩/ひんがん)あり、
松本の東、岡田か山辺の石といいます。
松本城を築城した石川玄蕃守康長が運ばせた巨石で、
運搬の苦労を物語る伝説が伝えられています。
康長の名にちなんで玄蕃石と呼ばれています。

太鼓門

松本城 太鼓門

太鼓門枡形の一の門をいいます。
江戸時代は倉庫として使用されていました。
明治初年に破却されましたが、平成3年から発掘調査、
同4年に石垣の復元を完了し、同11年に土台石の形に合わせて柱を削り、
太鼓門が復元されました。
樹齢400年の檜、梁は140年の松を使用しています。
太鼓門の建設年代は明確ではありませんが、
石川氏の時代には完成していたと考えられています。
門台南石垣の西土中から金箔瓦が発見され、市立博物館に展示されています。
門の東側床に石落がついています。
当時は通常朝6時に開け、夕方6時に閉めていました。

太鼓楼

太鼓門北側門台上には太鼓楼がありました。
鐘と太鼓が備えられ、時を知らせる等、
家臣に情報を伝える役割を果たしていました。
この楼があったので門を太鼓門と呼びました。

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