松本神社(まつもとじんじゃ)・長野県松本市丸の内




松本神社(まつもとじんじゃ)・長野県松本市丸の内

松本神社 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/松本神社

松本城の堀の北側に松本神社が鎮座します。

松本神社はかつて「五社」と呼ばれていました。

「五社」と「若宮八幡宮」が

一緒になって昭和28年から「松本神社」となったそうです。


松本神社前のケヤキ

松本神社前のケヤキは堀と神社の間に作られた道路の真ん中に立っています。

新道を開く際、ケヤキのために中央分離帯を作って伐採を思いとどまっそうです。

そのため、道が少し変形してしまったが、今となれば素敵な景観を作り出している。


楼門


手水舎


鳥居

松本神社 ご案内

御祭神
一色兵部少輔義遠 (片宮)
戸田弾正左衛門尉宗光 (今宮)
松平(戸田)丹波守康長 (洪 武 )
康長夫人(徳川)松姫 (淑 慎)
松平(戸田)孫六郎永兼 (暘 谷 )

五社は、藩主戸田家の祖先を祭る神社で、家臣もこれを氏神としました。
現在の祭礼は7月10・11日に行われています。
祭神が五神であるので五社と呼ばれました。

一色兵部少輔義遠 は、三河などの守護であった
一色義 範(義貫)の子で、室町時代に三河国田原の領主でした。
その跡を戸田氏の宗光が継ぎました。戸田弾正左衛門尉宗光は
正親町 三條家の出と伝え、三河国の田原戸田家の祖になった人です。
その4代目康光 の娘(真喜)は、家康の父である松平広忠の後室になって、
徳川家とは縁がありました。
康光の子が松本に関係が深い戸田氏の祖(二 連木戸田氏)になります。
松平(戸田)丹波 守 康 長 は、松本に入った戸田氏の最初の人です。
父を失い6歳で相続します。
このとき徳川家康は松平の称号を与え、さらに自分の生母である
伝通院が久松佐渡守俊勝 と再婚して生んだ松姫(5歳)を養妹として、
康長の許嫁にしました。
康長の「康」は元服のとき家康の字をもらって名乗りとしたものです。
初め1万石の大名(武蔵国東方 )から次第に加増されて、
1617(元和3)年松本へ来たときは7万石をもらうまでになっていました。
元和9年には3代将軍 家光の補佐役も勤めました。
1632(寛永9)年に享年71歳で松本で死去しました。
家康から松平の称号と葵の紋を使うことを真っ先に許された人です。
康長夫人(徳川)松姫は、すでに触れたように幼少時に康長と結婚しました。
康長 との間に一男一女を設けますが、24歳の若さで1588(天正19)年に亡くなりました。
松平(戸田)孫六郎永兼 は、戸田康長と松姫との間に生まれた長男です。ですか
ら家康の孫のひとりになります。
しかし、病を得て父の跡を継げずに40歳で松本で没しました。


拝殿


本殿


若宮八幡宮 拝殿

若宮八幡宮

深志城の築城者と伝える島立右近貞永を祭る神社で、
大正時代に五社の境内に遷宮されました。

祭神
島立右近貞永(八幡)
大名持 命 (大己貴命とも神田明神)
倉稲魄 命 (稲荷社)
歴史
島立貞知が父貞永をまつり、
城の鎮守としたといわれています。そこに深志を回復し
松本と名づけた小笠原貞慶 が稲荷を合祀したといいます。
1670(寛文10)年に、水野忠 直 は社殿の建物を松本市筑摩 へ移しました。
それは今に伝わって室町時代の様式を残す建築として
国指定重要文化財となっています。
正徳 年間に水野忠周は神田明神の分霊を若宮八幡に勧請しました。

若宮八幡宮の社殿 (国重文)
文政 8年8月、戸田光年の時に吉田家(唯一 神道 流の宗家)より
若宮八幡の社号を許されました。
藩主からは毎年籾9石が供えられていたといいます。
もともとの社殿は現在の埋の橋の北(島状になっているところ)にありましたが、
1914(大正3)年9月に五社の境内へ遷宮されました(旧版『松本市史』)。
神殿は宝暦 年間(1751~1764)の建築といい、水野氏時代の建物です。


社務所


境内

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