明日香村 ウォーキング 人気の観光地23 まとめ




明日香村 ウォーキング 人気の観光地23 まとめ

あすかであそぼ | 一般財団法人明日香村地域振興公社
http://asukadeasobo.jp

6世紀末から7世紀末までの約100年間、日本の中心地だった飛鳥

日本の中央集権律令国家の誕生の地でもあります。

聖徳太子や推古天皇、蘇我氏が活躍し、

有名な大化の改新などの舞台となった太古のロマンあふれる地です。

古墳や史跡が多く残り、自然あふれのどかな田園風景が素晴らしい

奈良県明日香村の観光スポットを巡りながらのんびり歩いてみました。

橿原神宮前駅 →(15分)→ 劒池嶋上陵 →(30分)→

甘樫丘 →(10分)→ 飛鳥水落遺跡 →(10分)→ 飛鳥坐神社 →(10分)

→ 飛鳥寺 →(1分)→ 蘇我入鹿首塚 →(10分)→ 亀形石造物 →(5分)

→ 酒船石遺跡 →(10分)→ 飛鳥宮跡 →(10分)岡えびす神社 →

(20分)→ 治田神社 →(5分)→ 岡寺 →(15分)→ 石舞台古墳 →

(20分)→ 川原寺跡 →(5分)→ 橘寺 →(10分)→ 亀石 →(20分)

→ 檜隈大内陵 →(5分)→ 鬼の俎 →(1分)→ 鬼の雪隠 →(15分)→ 

猿石 吉備姫王墓 →(1分)→ 檜隈坂合陵 →(30分)→ 橿原神宮

約4時間半(拝観時間含む5時間半) 20km

*途中ゆっくり拝観し休憩時間も含めた参考時間です。

■ 第8代 孝元天皇御陵(劒池嶋上陵)

第8代 孝元天皇御陵(劒池嶋上陵)の記事

橿原神宮前駅から東へ数分歩くと

8代天皇、孝元天皇の御陵(劒池嶋上陵)が見えてきます。

その名のとおり剣池という池に浮かぶ島の上にあります。

■ 甘樫丘(あまかしのおか)

蘇我氏居館跡 甘樫丘東麓遺跡

甘樫丘(あまかしのおか) 蘇我氏居館跡 甘樫丘東麓遺跡の記事

甘樫丘(あまかしのおか)は蘇我氏の邸宅があったとされる小高い丘

藤原京跡から明日香の村が見渡せます。

甘樫丘(あまかしのおか)

古くは日本書紀などにも記述が見られ、
誓盟の神(甘樫坐神社)が鎮座し允恭天皇の時に盟神探湯(くかたち)が行われた。
大化の改新以前には蘇我蝦夷と蘇我入鹿の親子が権勢を示すために
丘の麓に邸宅を構えていたという。
山腹には明日香村の保全に尽力した犬養孝揮毫の万葉歌碑(志貴皇子)がある。
2007年2月1日、東麓遺跡において7世紀前半から
中頃のものと見られる建物跡や石垣を発見したと発表され、
蘇我氏の邸宅跡ではないかと注目されている。

■飛鳥水落遺跡(あすかみずおちいせき)

飛鳥水落遺跡(あすかみずおちいせき)の記事

「日本書紀」には斉明天皇6年(660)5月、

皇太子中大兄皇子(のちの天智天皇)は、

日本で初めて水時計を作って人々に時刻を知らせた、とあります。

その時計ではないかとされる水時計の遺跡があります。

甘樫丘から道を挟んだすぐ前、産直市場の「あすか夢の楽市」敷地内で見ることができます。

■ 飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)

飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)の記事

飛鳥水落遺跡からまっすぐ進むと小高い丘に

飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)が鎮座します。

天照大神を初めて宮中の外で祀った地「倭笠縫邑」であるとする伝承もあり

元伊勢と称す。

奇祭「おんだ祭(お田植神事)」で有名。

飛鳥坐神社

奈良県高市郡明日香村飛鳥。旧村社。
甘奈備の飛鳥の社とも。
『延喜式』に「飛鳥坐神社四座並名神大。月次。相嘗。新嘗。」とある。
祭神四座には諸説がある。
出雲国造神賀詞に「賀夜奈流美乃御魂乃飛鳥乃神奈備爾坐天」とみえ、
『日本紀略』に天長六年(八二九)、神託により、
もとの雷丘から今の鳥形山へ遷祀したと。
貞観元年(八五九)正四位下を授けられる。
二月第一日曜日におんだ祭(お田植神事)があり、
予祝儀礼と夫婦和合の所作がある。
-『神社辞典』-

■ 飛鳥寺(あすかでら) 

飛鳥寺(あすかでら) 飛鳥大仏「日本最古の寺と大仏 」の記事

飛鳥寺(あすかでら)は日本最古の仏教寺院で

最古の仏像「飛鳥大仏」を有します。

日本仏教の歴史はこの寺院から始まったといっても過言ではありません。

日本人ならば一度は訪れたいお寺です。

飛鳥寺(あすかでら)

「日本書紀」によれば、崇峻天皇元年(588)に
蘇我馬子は法興寺を建立することを計画、
同5年には仏堂(金堂)・歩廊(回廊)が完成、
推古天皇元年(593)には塔を起工し、同4年には一応の建物が完成した。
同13年には丈六仏像を造り、翌14年に安置したとある。
日本最古の本格的な寺院で、その造営に際して多くの博士・工人が
朝鮮半島から渡来してあたったことが記されている。
大化改新や天皇の病気平癒など飛鳥時代を通じて
飛鳥における中心的な役割を果たしたが、建久7年(1196)に消失し、
現在に至る。法興寺・元興寺とも称され、
現在は止利仏師の作と伝える重要文化財の金銅丈六仏が残る。
昭和31年からの継続的な発掘調査の結果、塔を中心に三方に金堂を置き、
北側に講堂、南側に中門・南門の跡があることが判明した。
寺域は南北290m、東西200~250mの規模をもち、
飛鳥では大官大寺とともに、最大規模の寺院であった。

■ 蘇我入鹿首塚(そがいるかくびづか)

蘇我入鹿首塚(そがいるかくびづか)の記事

飛鳥寺から西へ数百メートル離れた所に

蘇我入鹿の首塚があります。

有名な大化改新、正確には(乙巳の変)で

中臣鎌足と中大兄皇子により飛鳥板蓋宮で暗殺された

時の権力者・蘇我入鹿の首塚だと伝わります。

■ 亀形石造物(かめがたせきそうぶつ)

亀形石造物(かめがたせきそうぶつ)の記事

明日香村は石造物でも有名です。

人物像などは日本の文化から見て明らかに異形なもので、

その他用途のはっきりしなく、多くが謎のままです。

ここ明日香を中心とした飛鳥時代は歴史的に解明されていない点が数多く

発掘調査が進められると同時に歴史が塗り替えられて行く、そんな状況です。

亀形石造物

酒船石遺跡は『日本書紀』斉明天皇2年の条に記載のある
「宮の東の山の石垣」に当たる遺跡である。
平成12年に行った発掘調査で、亀形石槽を中心とした導水施設をはじめ
石敷き・石垣・石段が発見された。
湧水施設から流れ出た水は木樋(もくひ)を伝って舟形石槽(小判形石造物)の水槽に溜まり、
さらに小穴から流れ出た少量の水が亀の鼻に入り、背中の水槽に溜まる構造になっている。
周囲を石垣や石敷で閉ざされた空間であることや、水の流れを見て楽しむ構造でないことから、
天皇祭祀にかかわる場所であったと推定される。

■ 酒船石遺跡(さかふねいしいせき)

酒船石遺跡(さかふねいしいせき)の記事

亀形石造物 横にある小高い丘を登ると酒船石遺跡があります。

酒船石遺跡

史跡 酒船石 昭和2年4月 史跡指定
この石造物は、現状では長さ5.5m、幅2.3m、厚さ1mで花崗岩で出来ている。
北側及び南側の一部は欠損しており、近世にどこかへ運び出されたものと考えられ、
石割の工具跡がのこっている。石の上面に、円や楕円の浅井くぼみを造って、
これを細い溝で結んでいる。
酒をしぼる槽とも、あるいわ油や薬を作るための道具ともいわれている。
しかし、この石の東40mのやや高いところで、
ここへ水を引くための土管や石桶がみつかっていることから庭園の施設だという説もある。
明日香村

■ 飛鳥宮跡(伝 飛鳥板蓋宮跡)

飛鳥宮跡(伝 飛鳥板蓋宮跡)の記事

飛鳥宮と一口に言っても、この時代は事ある度に遷都がされ

都が一箇所に長く止まることなく転々としていました。

そんな中、ここ明日香の地には時代ごとに都が置かれてきており

各宮を総称して飛鳥宮と呼ばれています。

伝飛鳥板蓋宮跡

推古天皇から持統天皇に至る7世紀の約100年間、
飛鳥地方には歴代天皇の宮がつぎつぎと造営されたが、
その遺跡はどれもまだ確認されていない。
そのうち皇極天皇の飛鳥板蓋宮については、この付近とする伝承があり
、昭和34年以来、おもに橿原考古学研究所によって発掘調査が続けられてきた。
その結果、掘立柱列で囲まれた東西約156m、南北約197mの長方形の区画(内郭)と、
その南半では中軸線上に位置する5間×2間の門と、7間×4間の建物、
北半ではここに復元したような高床式の大きな建物や大井戸など多くの遺構が検出された。
また内郭の東南に接しては、9間×5間の大規模な掘立柱建物(飛鳥エビノコ大殿と仮称)
を中心とする一区画があり、さらに東の県道沿いには、これらの遺構を囲む外郭の柱列や石溝が
南北に続いていることも明らかとなった。
建物はすべて掘立柱で、周囲に石敷があり、
木簡や土器などの出土物から板蓋宮よりは新しい7世紀末ごろの宮殿遺跡と推定されるが、
下層にも遺構があり、いずれの宮であるかは、なお今後の調査を待たねばならない。

■ 岡えびす神社(高市御縣坐鴨事代主神社)

岡えびす神社(高市御縣坐鴨事代主神社)の記事

飛鳥宮跡から岡寺へ向かう途中にある岡えびす神社。

決して大きな神社ではないですが、ウォーキングでしか出会えない

地元の神社です。

■ 治田神社(はるたじんじゃ)

治田神社(はるたじんじゃ)の記事

岡寺に近くに鎮座する治田神社(はるたじんじゃ)

元はこの地に岡寺の伽藍があったそうです。

治田神社(はるたじんじゃ)

岡寺の西方尾根の上に鎮座する。
社内の敷地に礎石があり、白鳳時代の瓦が出土することから、
もともとはこの地に岡寺の伽藍があったようである。
岡寺所藏の古図には当社の敷地付近に、金堂・塔などの旧地を記している。
このことからすれば、当社は岡寺の移転後、此所に鎮座したことになるが、
その経緯などは判明しない。
現社頭より東方の山嶺に「天神山」「天神祠阯」と呼ばれる所があり、
あるいは現社は天神山より降つたかとも考えられるが不詳。
『五郡神社記』に「治田神社一座在逝回郷小治田村(今云豊浦村)」と見える。
逝回郷は豊浦寺南方の飛鳥川左岸一帯を指すとされる。
それによれば、当社は現在の明日香村豊浦付近にあつたことになるが、
その位置については判然とはしない。
治田神社は治田氏の祖先を奉祀したものと考えられ、
その祭神は彦坐命であつたかと考えられる。
文安(1444~49)の頃には大己貴命の別名たる大地主神を奉祀したものと考えられる。
何時の頃よりか又更に社名を八幡宮と称して応神天皇を祭り、
明治になつてからは治田神社となつたが、祭神依然とし応神天皇を主神として、
他に二柱を相殿に併祀して今日に至つている。

■ 岡寺(おかでら)東光山龍蓋寺

岡寺(おかでら)東光山龍蓋寺の記事

智天皇2年(633)、義淵僧正が草壁皇子の岡宮をもらい受け創建。

当初、伽藍は別の場所(治田神社)にあった。

岡宮をもらい受けたことから岡寺と呼ばれているが、正式には龍蓋寺という。

現在は山の中腹に江戸時代の書院(重要文化財)や仁王門(重要文化財)、本堂が佇む。

本尊は天平時代作で女性の厄除け観音として信仰を集めている如意輪観音坐像(重要文化財)。

像高4.6mでわが国最大の塑像。

西国三十三カ所観音霊場第7番札所でもある。四季折々の花が美しい。

■ 石舞台古墳(いしぶたいこふん)

石舞台古墳(いしぶたいこふん)の記事

あまりにも有名な石舞台古墳、

ここ明日香の象徴的な古墳は蘇我馬子の墓と伝わります。

石舞台古墳

石舞台古墳は早くから石室を覆っていた盛土が失われ、
巨大な天井石が露出していたことから石舞台の名前で親しまれている。
昭和8年(1933)から実施された調査では墳丘は一辺約55mの方墳又は
上円下方墳で、周囲には周濠と外堤が巡らされており、
墳丘と外堤の斜面には貼石が施されていることが明らかとなった。
埋葬施設について南に開口する両袖式の横穴式石室で
玄室長約7.8m、幅約3.4m、羨道長は約11.5m、幅約2.2mあり、
玄室から羨道にかけて排水溝が設けられている、
石室内からは凝灰岩片が出土していることから
家形石棺が安置されていたものと推定される。

■ 川原寺跡(かわらでらあと)

川原寺跡(かわらでらあと)の記事

川原寺跡

川原寺は、飛鳥寺(法興寺)、薬師寺、大官大寺(大安寺)と並ぶ
飛鳥の四大寺に数えられ、7世紀半ばの天智天皇の時代に建立されたもの
と思われるが、正史『日本書紀』にはこの寺の創建に関する記述がない。
そのため創建の時期や事情については長年議論され、さまざまな説があり、
「謎の大寺」とも言われている。
平城京遷都とともに他の三大寺(飛鳥寺、薬師寺、大官大寺)は
その本拠を平城京へ移したが、川原寺は移転せず、飛鳥の地にとどまった。
平安時代最末期の建久2年(1191年)の焼失後は歴史の表舞台から姿を消し、
発掘された瓦やセン仏(せんぶつ、土で作り焼成した仏像)、
堂塔の礎石以外には往時をしのばせるものはない。

■ 橘寺(たちばなでら)仏頭山上宮皇院菩提寺

川原寺跡前、聖徳太子誕生の地と伝わる橘寺(たちばなでら)は

時間の都合で残念ながら立ち寄ることが出来ませんでしたが

明日香村ではぜひ抑えておきたい所。

橘寺(たちばなでら)

聖徳太子生誕の地といわれ、太子建立の七ヶ寺の一つ。
606年、推古天皇の命を受けた聖徳太子が「勝鬘経(しょうまんきょう)」を
3日間にわたって講讃した夜、大きな蓮が庭に降り積もり、
南の山に千の仏頭が現れ光明を放つなど不思議な出来事が起こりました。
驚いた天皇は太子に命じて、寺を建立したのが始まりとされます。
境内には善悪2つの顔が刻まれた二面石や、3つの副柱の穴をもつ塔心礎が残っています。

■ 亀石(かめいし)

亀石(かめいし)の記事

明日香村のシンボル亀石。

そのユーモラスな表情で有名な亀石ですが、

「一度でも西を向くと、大和盆地は泥沼になる」という恐ろしい伝説も

亀石

亀石(かめいし)とは、奈良県明日香村川原にある亀の形をした遺構。
長さ3.6メートル、幅2.1メートル、高さ1.8メートルの巨大な花崗岩に
亀に似た彫刻が彫られていることからこの名前で呼ばれている。
ユーモラスな顔つきから明日香村観光のシンボルともなっている。

■ 第40代 天武天皇・第41代 持統天皇御陵

(檜隈大内陵)

第40代 天武天皇・第41代 持統天皇御陵(檜隈大内陵)の記事

檜隈大内陵

代 数 第40代・第41代
天皇名 天武天皇・持統天皇
御陵名 檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)
陵 形 円丘
合 葬 天武天皇・持統天皇と合葬
所在地 奈良県高市郡明日香村大字野口

■ 鬼の俎(おにのまないた)

鬼の俎(おにのまないた)の記事

大化の改新の翌年にあたる646年に作られているようです。

残念ながら誰のお墓であったかはわかっていませんが、

近年天智天皇の第一皇子で持統天皇の実弟・建王(たけるのみこ)と、

建王の祖母・斉明天皇が合葬された可能性が高いと報告されています。

■ 鬼の雪隠(おにのせっちん)

鬼の雪隠(おにのせっちん)の記事

鬼の俎と鬼の雪隠はすぐ近くにあるので

合わせて見たいところ。

鬼の雪隠

鬼の雪隠は墳丘土を失った終末期古墳(7世紀後半・飛鳥時代)の石室の一部である。
本来は花崗岩の巨石を精巧に加工した底石・蓋石・扉石の3個の石を組み合わせたもので、
鬼の雪隠はその蓋石にあたり、上方にある鬼の俎(底石)から横転してきた状態にある。
この周辺は霧ヶ峰と呼ばれ鬼が住み、通行人に霧を降らせ迷ったところをとらえて、
俎の上で料理し、雪隠で用を足したという伝説がある。

■ 猿石(さるいし)

猿石(さるいし)の記事

猿石

猿石(さるいし)は、奈良県高市郡明日香村の梅山古墳(現:欽明天皇陵指定)
西に隣接する吉備姫皇女王墓内にある奇石で、全部で4体ある。
ユニークな人面石像であるが、猿ではなく渡来人を象ったものであるといわれている。

■ 吉備姫王墓(きびひめのみこのはか)

吉備姫王墓(きびひめのみこのはか)の記事

吉備姫王墓

墓名を檜隈墓(ひのくまのはか)と称する。
孝徳天皇(こうとくてんのう)と皇極天皇(こうぎょくてんのう、斉明天皇とも)
の生母にあたり、「日本書紀」によれば吉備姫王
(吉備嶋皇祖母命 きびしまのすめみおやのみこと)は
皇極天皇2年9月に亡くなり檀弓岡に葬られたとある。
また、『延喜式(えんぎしき)』「諸陵寮(しょりょうりょう)」には
欽明天皇陵と同じ陵域内に墓があると記されていることから、
現在地に指定されている。
墓域内には江戸時代に欽明天皇陵の南側に字(あざ)イケダの水田から
掘り出された石造物4体があり、猿石(さるいし)と称されている。

■ 第29代 欽明天皇御陵(檜隈坂合陵)

第29代 欽明天皇御陵(檜隈坂合陵)の記事

欽明天皇陵

陵名は檜隅阪合陵、全長約140m、後円部径72m、前方部107mで、
墳丘は3段成で周濠を持ち、明日香村内では唯一の前方後円墳である。
「日本書紀」によれば、欽明天皇は32年(571)4月になくなり、
9月に檜隈坂合陵に埋葬されたとある。
欽明天皇の妃で推古天皇の母、堅鹽媛(きたしひめ)を推古天皇20年(612)に合葬し、
28年(620)10月には砂礫を檜隈陵の上に葺き、土を積みて山を成し、
氏ごとに大柱を土の山の上に立てさせると云う記事が見える。

橿原神宮(かしはらじんぐう)

橿原神宮(かしはらじんぐう)の記事

橿原神宮

建国の聖地・橿原、ここから日本という国が始まりました。

日本最古の正史ともされる『日本書紀』において、日本建国の地と記された橿原。
天照大神あまてらすおおかみの血を引く
神倭伊波禮毘古命かむやまといわれびこのみこと(後の神武天皇)が、
豊かで平和な国づくりをめざして、九州高千穂の宮から東に向かい、
想像を絶する苦難を乗り越え、畝傍山うねびやまの東南の麓に橿原宮を創建されました。
第一代天皇として即位されたのが紀元元年、今からおよそ2,600余年前のことです。
日本の歴史と文化の発祥の地でもある橿原は、日本の原点ともいえるでしょう。

ゆっくり5時間以上の道のりですが、

自分の足で歩いて見る景色、印象の残り方はまた格別です。

古の地に想いを馳せウォーキングをしてみてはいかがでしょうか。

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