千頭峯城跡(せんとうがみねじょうあと)・静岡県浜松市北区三ヶ日町摩訶耶




千頭峯城跡(せんとうがみねじょうあと)

静岡県浜松市北区三ヶ日町摩訶耶にある千頭峯城跡(せんとうがみねじょうあと)

「センドウ山)」標高137.7mの山頂部に広がる南北朝時代の城跡です。

麓には726年に聖武天皇の勅願寺として開かれたという古刹「摩訶耶寺」があります。

千頭峯城跡(せんとうがみねじょうあと)
静岡県指定史跡

所在地 浜松市北区三ケ日町摩訶耶字城山
様式  山城
構造  堀切・土塁・空堀
城主  奥山氏
築城年 16世紀初頭(南北朝期)
面積  250m×200m
標高  120m
比高  100m

千頭峯城跡(静岡県指定史跡)

千頭峯城は、大福寺の古い文書「瑠璃山年録残編」によると、
南北朝時代に後醍醐天皇の第八皇子宗良親王を奉じて奮戦した
井伊氏の西方、最大の拠点でした。
南北朝時代の典型的な鶴翼型の山城で、曲輪、空堀、土塁などが
今も残っています。
この本城の周りには鯉山砦、長岩砦、池田峠曲輪、隠尾美曲輪なども設けられ、一大砦群を形成していました。
当時の守将は井伊氏一族の奥山朝藤といわれ、南朝方の廷臣や浜名神戸庄庄県氏、大江氏をはじめ勤王の将士数百名で籠城しましたが、北朝方の武将 高師兼の大群の攻撃に耐えかね、三ヶ月の攻防の末、暦応二年(一三三九年)落城しました。
この千頭峯城跡は戦国時代に砦として再利用された形跡もありますが、長い間、詳細が解明されることはありませんでした。
近年になって、三ケ日町内の郷土史家や地元の千頭峯城史蹟保存会の会員の研究、保存活動のおかげで中世の代表的な城砦群として、昭和五六年三月十六日(一九八一年)静岡県指定史跡に指定されました。

東曲輪

当時、井伊家は後醍醐天皇の皇子、宗良親王を迎えて北朝の足利幕府軍と、

遠江を舞台に戦っていましたが、三岳城を本城として

南に鴨江城、東に大平城、北に天山城、そして、西の千頭峯城と

4つの支城のひとつに数えられています。

二曲輪

千頭峯城跡(センドウ山) 137.7m 本曲輪

四等三角点(摩詞耶) 標高137.68m

千頭峯城について

この城山は、大福寺の古記録瑠璃山年録残篇に記されている千頭峯城で、
この城は南北朝の昔宗良親王を奉じて奮戦した
井伊氏の西方における南北朝最大の拠点、千頭峯本城の跡である。
守将は井伊氏一族の奥山朝藤といわれ南朝方の廷臣や浜名神戸庄庄官県氏、
大江氏を始め勤王の将士数百騎で籠城した。
北朝方の武将、高師兼は大軍を率いて三ヶ月間の攻撃を加え
暦応二年(1339)十月三十日落城した。
本城は昭和十五年に専門家の合同調査により鶴翼型の典型的な山城で、
規模も大きく、当時の塹壕塁段砦井戸などはっきりと残っており、
山城跡としては、全国的にも代表的なものといわれる。
三ヶ日教育委員会,千頭峯城史蹟保存会

千頭峯城域本城砦塁分布図

摩訶耶寺(まかやじ)の北東に位置する通称センドウ山の山頂部に城跡が広がる。

南北朝時代、宗良(むねよし・むねなが)親王を迎え南朝軍が防備を固める際に、

千頭峯城、鴨江城、大平城、三嶽城が構築された。

現在は主郭周辺に堀切や土塁跡が残る。

1981(昭和56)年3月16日に静岡県の文化財に指定されている。

井戸曲輪

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