日金山 東光寺・静岡県熱海市伊豆山




日金山 東光寺・静岡県熱海市伊豆山

日金山 東光寺

十国峠(日金山)の近くにある日金山 東光寺

273年に松葉仙人 開祖と伝わる伊豆でも最も古い神社(現在は寺院)です。

元々は源頼朝が崇敬した伊豆山神社の元宮でした。

十国峠(日金山)に立ち寄り、

「姫の沢公園」前から東光寺へ

熱海市の北に位置する通称「十国峠」と呼ばれる日金山へ 山中には273年に松葉仙人 開祖と伝わる「東光寺」が鎮座。境内から続く「岩戸山」まで、花の時期にはヤマボウシやハコネウツギが群生する人気の縦走路を歩いてきました。

日金の伝三仙人塚

熱海市指定文化財
史跡 日金の伝三仙人塚
指定 昭和五十二年四月二十五日
日金地蔵堂の裏山の(この奥約五十メートル)に日金山・東光寺の開祖創を伝える松葉仙人、木生仙人、並びに金地仙人を供養する市内で最も古い宝篋印塔の三基が塚上に立っている。
中央の塔が松葉、右側が金地、左側が木生の各仙人墳である。
松葉仙人古墳塔の基礎部に「建武三 九月五日 沙弥口阿弥陀仏」、追補の塔身の裏に「文化十仲冬十四日 不退金剛周道 再修拝誌」の刻銘がある。
古くからこの丘陵一帯は山林修行の場であった。

熱海市教育委員会

境内

手水舎に六地蔵

日金山 東光寺

本堂

日金山の扁額

日金山 東光寺の由来

応神天皇二年(271年)伊豆山の浜辺に、光る不思議な鏡が現れました。鏡は波間を飛び交っていましたが、やがて、西の峰にとんでいきました。その様子は日輪のようで、峰は火を吹き上げているように見えたので、日が峰と呼ばれ、やがて日金山と呼ぶようになりました。
同四年(273年)松葉仙人が、この光る不思議な鏡をあがめ、小さな祠を建てて祀ったのが、開山と伝えられています。
推古天皇の頃(594年)走湯権現の神号を賜り、その後、仁明天皇の承和三年(836年)甲斐國の僧、賢安が、日金山本宮から神霊を現在の伊豆山神社のある地に遷したと言われています。(走湯山縁起云云)
鎌倉時代は、源頼朝の篤い信仰に支えられ、現在本尊として祀られている延命地蔵菩薩像も、頼朝公の建立によるものです。
地蔵菩薩は、地獄に其の身を置いて、地獄で苦しむ者を救ってくれる仏であることから、死者の霊の集まる霊山として篤い信仰があり、今も尚、春秋の彼岸には多くの人が登山して、神仏や先祖供養のために、卒塔婆供養をしています。

日金山 東光寺H.Pより

日金の鬼伝説

日金の山に鬼がいる…昔から、伊豆地方の死者の霊魂は、みな日金山に集まるといい伝えられ、春秋の彼岸に日金山に登ると、通行人の中に、会いたい人の後ろ姿を見ることができると言われてきました。そして日金のどこかに地獄、極楽があると信じられているのです。
天正10年12月、朝比奈弥太郎が、家康の命をうけ韮山の北条氏規を訪ねるため、十国峠を越え日金の山を下る途中、六尺豊かな大男に出会い、その男が亡者を迎える鬼であったという話が伝えられたものです。

日金山 東光寺H.Pより

鐘楼

日金山東光寺の由来

日金山東光寺の由来

応神天皇二年(二七一)伊豆山の浜辺に、光る不思議な鏡が現れました。鏡は波間を飛び交っていましたが、やがて、西の峰にとんでいきました。その様子は日輪のようで、峰は火を噴き上げているように見えたので、日が峰と呼ばれ、やがて日金山と呼ぶようになりました。
同四年(二七三)松葉(しょうよう)仙人が、この光る不思議な鏡をあがめ、小さな祠を立てて祀ったのが、開山と伝えられています。
推古天皇の頃(五九四)走湯(そうとう)権現の神号を賜り、その後、仁明天皇の承和三年(八三六)甲斐國の僧、賢安が、日金山本宮から神霊を現在の伊豆山神社のある地に遷したと言われています。 鎌倉時代は、源頼朝の篤い信仰に支えられ、現在本尊として祀られている延命地蔵菩薩像も、頼朝公の建立によるものです。
地蔵菩薩は、地獄に其の身を置いて、地獄で苦しむ者を救ってくれる仏であることから、死者の霊の集まる霊山として、篤い信仰があり、今も尚、春秋の彼岸には多くの人が登山して、神仏や先祖供養のために、卒塔婆供養をしています。

伊豆開山の三仙人

伊豆開山の三仙人

日金山地蔵堂のさらに奥、木立が切れて笹原となる境い目に、伊豆山を開いた三仙人の廟所と伝えられる三基の石造宝篋印塔が並んでいる。
伊豆山走湯権現の由来を記した『走湯山縁起』によれば、応神天皇二年(二七一)四月、相模国唐浜の海上に直径三尺の円鏡が出現したという。そのとき三十歳あまりの異国風の身なりをし、松葉を常食とし、松葉仙人と呼ばれた人物が高麗山に神鏡を祭ったのが伊豆権現の発祥である。仁徳天皇の御代、松葉仙人によって神鏡は伊豆山に移され、勅命によって社殿を建立した。これによって勧請仙人とも呼ばれた。
仁徳天皇七十一年(三八三)、巨樹の空洞から蘭脱仙人(木生仙人)が出現した。仙人は富士山の噴火や疫病を鎮めて霊験を表し、伊豆辺路(伊豆半島一周の修行路)を開いた。権現の神像はこの時初めて作られたという。
敏達天皇四年(五七五)、大地震とともに金地仙人が現れた。そのころ、高麗より鳥の羽に書かれた読むことのできない国書が届けられ、権現は人の姿で現れてこれを読み解き、朝廷より所領が献じられた。孝徳天皇(六五三)、金地仙人も入定し、三仙人の廟窟が並立して設けられたという。
現存する三仙人の石塔は、文化十年(一八一三)ごろ、般若院別当・周道によって、古い石塔を組み合わせて造成されたものである。仙人開山の伝承は、記される年代こそ空想的ではあるが、仏教公伝以前から伊豆山が神仙の鎮まる霊場であることを主張しているのであろう。
なお称名寺本『浅間大菩薩縁起』によると、往古の富士登頂者として走湯山開山の仙人と似た金時・覧薩・日代の名が記録されている。『走湯権現当峰辺路本縁起集』では伊豆山と富士山を両界曼荼羅の入口と出口に位置づけており、往古より両山一体の修験霊場と考えられていたようである。

末代上人と走湯山

平安時代、初めて富士登頂に成功し、富士修験の開祖とされる末代上人(一一〇三~?)は走湯山出身の僧であった。室町時代の成立と見られる『地蔵菩薩霊験記』の日金山の記述によると、富士山を開いた末代は、伊豆・箱根二所権現をも草創し、焔熱を発して地獄の様相を示していた熱海の亡者を救うため、日金山に地蔵菩薩を安置したという。
出家して走湯山に入ったものの、出世を求める僧ばかりであったことに失望し、五穀を断ち、粗衣を常用して諸国の雲峰を踏破し、衆生を救う苦行の道を選んだ。ついには人跡未踏と考えられていた富士登頂(富士禅定)を発願し、同志の頼然とともに準備を重ね、大宮浅間(富士宮市浅間大社)の神官や山麓の住民に助けられて、長承元年(一一三二)閏四月十九日に初登頂に成功した。「末代聖人」の名は浅間大菩薩の護法童子から与えられたという。その名声は京都にまで達し、久安五年(一一四九)には鳥羽法皇に招かれて上洛、貴賤上下の人々が書写した如法大般若経を賜り、それを富士山頂に納めた(『本朝世紀』)。
末代が開いた登山道は村山口と呼ばれ、山麓に村山浅間社(興法寺)、中腹に往生寺(中宮・室大日)、頂上に大日寺が創建された。富士開山の末代は、没後村山浅間社の境内に大棟梁権現として祭られた。こうしたゆかりによって、中世を通じて富士山麓村山の地には走湯山領として存続した。
近年、日金山に通じる「仏の道」三六~三七丁付近の山腹から、文化十一年(一八一四)に般若院主周道によって建てられた末代上人の供養塔(石造宝篋印塔)が発見され、江戸時代後期まで、走湯山においても末代上人が重要な先徳として顕彰されていたことが明らかになった。

富士山を世界文化遺産にする熱海の会有志一同 文 西岡芳文

丁仏参道に残る石仏

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