高月院(松平氏遺跡)・知県豊田市松平町寒ケ入




高月院(松平氏遺跡)・知県豊田市松平町寒ケ入

松平郷は、豊田市街から東に10km、国道301号線沿いの山村にあります。

東に炮烙山(684m)や六所山(606m )を有し、

西に行くに従ってなだらかな丘陵地となっています。

徳川300年の礎となった松平八代の歴史は、ここ松平郷から始まりました。

平成6年には松平氏の居館(東照宮境内)を「松平氏館跡」とし、

「松平城跡」「大給城跡」「高月院」の4ヶ所が初期松平氏の状況をよく伝えている

ということから、一括して松平氏遺跡として国の指定史跡となりました。

浄土宗の寺院、高月院(こうげついん)は1367年足助次郎重宗の子、重政( 寛立上人) が

松平郷主在原信重の援護を受けて「寂静寺」として建立したと言われています。

1377年に親氏が本尊阿弥陀仏をはじめ、堂・塔のすべてを寄進してから「高月院」と改め、

松平氏の菩提寺となっています。

その後、徳川家康によって寺領100 石が与えられ、

明治維新まで時の将軍家から厚い保護を受けていました。

山門や本堂は、1641 年に徳川家光によって建てられたものと言われています。

高月院(こうげついん)

寺 名

本松山高月院寂静寺 (通称:高月院)

開 創

貞治6年(1367)

本 尊

阿弥陀如来

所在地

〒444-2202 豊田市松平町寒ケ入44

電話番号

0565-58-1629(松平郷ふるさとづくり委員会事務局

営業日・時間

境内自由(無料)

駐車場

無料・8台(松平郷駐車場を利用)

国指定遺跡 松平氏遺跡

(松平氏居館跡・松平城跡・大給城跡・高月院)

松平氏は江戸幕府の創始者である徳川家康の祖で、ここ松平町が発祥の地です。

伝承によれば時宗の遊行僧・徳阿弥が諸国を流浪中、東国から三河の大浜、そして松平郷に入り、土豪在原信重の婿となり松平親氏を名乗り松平城を本拠としたのが始まりといわれています。三代信光の時、後の徳川将軍家となる松平宗家と幕末まで松平郷に住した旗本・交代寄合松平太郎左衛門家に分かれました。信光は松平郷から岩津・大給・安城・岡崎城へと侵攻し西三河一帯に進出、一族発展の基礎を築き、松平氏九代目家康が徳川に改姓して天下統一を果たしました。家康の死後、太郎左衛門家九代尚栄の時に東照宮が駿河から当地に勧請され、「ご称号の地」として松平郷は幕府から敬まれてきました。

平成六年、松平氏の居館(東照宮境内)を「松平氏館跡」とし、「松平城跡」、「大給城跡」、「高月院」の4ヶ所が初期松平氏の状況をよく伝えているということから、一括して松平氏遺跡として国の指定史跡となりました。

「松平氏館跡」(現松平東照宮」は、三時期の歴史的な段階がありました。初めは、親氏の居館としての松平氏館、つぎに松平信光以後、宗家と分かれた旗本松平太郎左衛門の居館、そして、居館廃絶後、今日みるような元和年間に勧請されていた東照宮を前面に祭祀した松平東照宮の段階です。境内には「産湯の井戸」と呼ばれる井戸があります。松平家では三代松平信光が当館で出生した際、この清水を用いたことから松平家代々の「産湯の祝泉」となったといわれています。天文十一年(1542)に家康が岡崎城で誕生した際には竹筒につめて早馬で届けたといわれています。また、館跡正面から西側に巡る水掘の石垣は江戸時代初期に整備されたといわれています。

総門南面

高月院の山門や本堂は、

寛永十八年(1641)年に三代将軍・徳川家光が寄進したものといわれており、

時代の節目で修理が続けられ現在に至ります。

高月院

所在地
愛知県豊田市松平町寒ヶ入44
寺 名
本松山高月院寂静寺 (通称:高月院)
開 創
貞治6年(1367)
本 尊
阿弥陀如来

高月院
高月院は、貞治6年(1367)の創建で、徳川氏の始祖、松平家の菩提寺です。
慶長7年(1602) 寺領、100石を徳川家康より下賜され、以後幕末に至るまで厚遇されました。
境内の収蔵展示室には、市指定文化財の高月院文書、弁財天の図、野風炉など貴重な文化財が展示されています。
境内は、国指定史跡「松平家遺跡」になっており、初代親氏、2代泰親、4代親忠夫人の墓所があります。

三十三観音

仏足石

山門

本堂

本堂正面 (扉両脇に葵紋 扁額は「本松山」)

鐘楼

松平弁才天

文化財収納庫

松平氏墓所

国指定文化財(史跡) 松平氏墓所 

国指定 平成12年2月4日
徳川家康(松平氏9代)の祖先である松平氏の墓所です。歴代住職の墓地より1段高い石垣上にあり、中央に松平氏の始祖である親氏の墓塔、右に2代泰親、左に4代親忠夫人の墓塔が配されています。
墓塔は3基とも花崗岩製の宝篋印塔で、室町時代中期から後期にのものと思われますが、いずれも一部が欠損しています。4代親忠夫人の墓があるのは、親忠の第4子超誉存牛上人が高月院第7代住職(1575年入山)であるため、母を祖先の陵墓の地に葬ったものと思われます。
墓域は50平方メートルあり、文政年間に11代将軍徳川家斉、明治23年に旧大和郡山藩主柳沢保申がそれぞれ修築して現在に至っています。

高月院本堂の左手奥、葵の紋の石扉には松平氏墓所があり、

松平親氏、二代泰親、四代親忠夫夫人の宝篋印塔三基が祀られている。

松平太郎左衛門尉源親氏公墓(中央の墓塔、松平氏の始祖)
芳樹院殿俊山徳翁大禅定門 應永元申戌年四月二十四日逝去 年六十三

従五位下三河目代三河守松平太郎左衛門尉源泰親(右、松平2代泰親/やすちか)
良祥院殿秀岸祐金大禅定門 永享二庚戌年九月二十日逝去 年七十五

蔵人源親忠公室(向かって左、松平5代長親の母)
閑照院殿皎月珠光大禅尼 出雲守長親公母堂 永正三丙寅年八月二十二日逝去
松平親忠の子が住職になった関係で、母の親忠夫人を祖先の陵墓に葬ったと思われる。

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