松平東照宮 松平氏遺跡(松平郷園地)・愛知県豊田市松平町赤原




松平東照宮 松平氏遺跡(松平郷園地)・愛知県豊田市松平町赤原

松平郷は、豊田市街から東に10km、国道301号線沿いの山村にあります。

東に炮烙山(684m)や六所山(606m )を有し、

西に行くに従ってなだらかな丘陵地となっています。

徳川300年の礎となった松平八代の歴史は、ここ松平郷から始まりました。

平成6年には松平氏の居館(東照宮境内)を「松平氏館跡」とし、

「松平城跡」「大給城跡」「高月院」の4ヶ所が初期松平氏の状況をよく伝えている

ということから、一括して松平氏遺跡として国の指定史跡となりました。

その松平郷(松平氏館跡)にある松平東照宮は、

徳川家康と松平氏の始祖・松平親氏を祀る神社です。

2015年には徳川家康公400年祭メモリアル事業として、安藤則義氏が2年の月日をかけ、

漆絵の天井画を施しました。

108枚の漆絵は松平で見られる季節の草花が描かれ、観る者を魅了する壮麗さです。

また、境内には家康公も産湯として用いたと言われる「産湯の井戸」があり、

不老長寿や安産の御利益があるとされています。

また、拝殿そばの「松平郷館」では、具足や軍配、軍扇、鞍や火縄銃、家康像など、

松平家・徳川家ゆかりの品が収められています。

松平郷史跡観光案内図

笠掛けの楓と見初めの井戸跡

松平東照宮の前には「笠掛けの楓と見初めの井戸跡」があります。

流浪の旅の末に松平郷にたどり着いた徳阿弥(松平親氏)は、

村長の松平太郎左衞門信重の婿養子となりましたが、信重の末娘(水姫)とは、

屋敷の前で出会いました。

親氏は、咲き誇る菖蒲(あやめ)に見とれ、楓の枝に笠を掛けて休んでいたところ、

信重の末娘 水姫が井戸の水に菖蒲の花を添えて差し出したそうです。

また境内には在原信盛が掘ったと言われ、

家康もこの井戸の水を産湯に用いたと伝わる「産湯の井戸」もあります。

産湯井戸の由来

産湯の井戸については伝承が多いが、天文十一年二月二十六日に岡崎城において松平家康(徳川と改姓)が生誕されたとき、太郎左衛門家七代当主親長が竹筒へ詰めて速馬でこの水を運んで産湯に用いた記録がある。境内地(元松平家館跡)には七ツの井戸があったが、此の井戸は最も古く此の所に館を構えた当時造られたものである。松平氏の氏神八幡の宮の前庭(今の奥宮)にあり石畳で囲い石段を下りて水を汲むように出来ている。また、石板の蓋のある井戸は、当時としては極めて珍らしいといわれている。こんこんと湧き出る山清水は非常に美くよく澄んだ水である。また此の地を井戸の洞とも呼び、井戸を掘った際に尊体(石)を得て氏神として祀り水神八幡、うぶの八幡、等の異名がある。江戸時代将軍御代替のとき諸国巡検使の巡見地であり貴重な取扱がされていた。古くは井戸の溢流、濁水などは異常事発生の前兆とされていたが、昭和二十年四月十六日夜の「お水取」には水枯れでお水取の神事が出来兼ねた。このときは戦時中で参加者は少人数であったが敗戦を覚悟したと伝えている。

当社は四月御例祭の前夜試楽祭を斎行後引続き「お水取」の神事を行っている高張提灯を前尊に浄闇の中に列を正し宮司以下役員、総代、氏子、等で産湯井戸前にいたり開扉して浄水を汲み取り神前へ供える。

翌日例祭日に御神水として一般に授与している。この水汲のときの水位により農作の吉凶の占をする慣例がある

御神水は不老長寿、また安産するようにと遠くから来て拝受する人が多い昨今では立身出世の神、政治の神、安産の神としての信仰があり、社務所でこの御神水を頂く人が年々増えている。

八幡神社 松平東照宮

ご祭神

誉田別命(八幡様)

徳川家康公

松平親氏公 他六社

ご例祭

四月十七日より前の土曜(試楽祭、お水取り)日曜(例祭・御輿渡御)

ご由緒

当社の歴史は古く、松平家の氏神として若宮八幡を奉祀し、元和五年(1619)に久能山東照宮より徳川家康公の御分霊を勧請して合祀して以後、『松平の権現様』または『松平の東照宮』と呼称され、立身出世の神、政治の守神、厄除けの神として広く崇敬され親しまれている

国指定遺跡 松平氏遺跡

(松平氏居館跡・松平城跡・大給城跡・高月院)

松平氏は江戸幕府の創始者である徳川家康の祖で、ここ松平町が発祥の地です。

伝承によれば時宗の遊行僧・徳阿弥が諸国を流浪中、東国から三河の大浜、そして松平郷に入り、土豪在原信重の婿となり松平親氏を名乗り松平城を本拠としたのが始まりといわれています。三代信光の時、後の徳川将軍家となる松平宗家と幕末まで松平郷に住した旗本・交代寄合松平太郎左衛門家に分かれました。信光は松平郷から岩津・大給・安城・岡崎城へと侵攻し西三河一帯に進出、一族発展の基礎を築き、松平氏九代目家康が徳川に改姓して天下統一を果たしました。家康の死後、太郎左衛門家九代尚栄の時に東照宮が駿河から当地に勧請され、「ご称号の地」として松平郷は幕府から敬まれてきました。

平成六年、松平氏の居館(東照宮境内)を「松平氏館跡」とし、「松平城跡」、「大給城跡」、「高月院」の4ヶ所が初期松平氏の状況をよく伝えているということから、一括して松平氏遺跡として国の指定史跡となりました。

「松平氏館跡」(現松平東照宮」は、三時期の歴史的な段階がありました。初めは、親氏の居館としての松平氏館、つぎに松平信光以後、宗家と分かれた旗本松平太郎左衛門の居館、そして、居館廃絶後、今日みるような元和年間に勧請されていた東照宮を前面に祭祀した松平東照宮の段階です。境内には「産湯の井戸」と呼ばれる井戸があります。松平家では三代松平信光が当館で出生した際、この清水を用いたことから松平家代々の「産湯の祝泉」となったといわれています。天文十一年(1542)に家康が岡崎城で誕生した際には竹筒につめて早馬で届けたといわれています。また、館跡正面から西側に巡る水掘の石垣は江戸時代初期に整備されたといわれています。

本殿

社務所

松平東照宮

所在地

〒444-2202 豊田市松平町赤原13

電話番号

0565-77-8089(松平観光協会)

料金

拝観無料、天井画の観覧は200円
※ 料金は変更になる可能性がございますので公式サイト等でご確認ください

営業日・時間

拝観終日
10:00~15:00(松平郷館)

駐車場

無料・一般車(70台) 観光バス(5台)

ホームページ

http://www.matsudairagou.jp/about/toshogu.html

松平郷館

松平東照宮敷地内にある松平郷館は、松平親氏公坐像をはじめ

徳川将軍家の祖先松平家に関する遺品など200点あまりの資料を展示公開する資料館です。

松平八代を象徴した石柱

松平郷園地

松平郷には、松平氏をしのぶ歴史的な資料や史跡が多く残されています。 その代表ともいえる松平東照宮から高月院にかけての2 ヘクタールが、歴史と自然の里「松平郷園地」として整備されています。 自然保全に配慮された室町時代を連想させる景観は、訪れる人々に心の安らぎを与えるこれまでにないタイプの公園です。 園地の入口には、松平八代を象徴する七対の石柱と初代親氏の銅像が設けられ、人々をいにしえの時代へといざないます。 高月院に至る250m の遊歩道治しいの「室町塀」や「冠木門」は、室町期の歴史景観を醸し出します。 また、親氏と水女の出会いに思いを馳せる親水緑道「あやめ恋路」の山野草や、自然の象徴ともいえるハッチョウトンボの生息するトンボ沼などが自然とのふれあいを演出します。 歴史と自然を育む私たちの心のふるさと松平郷の整備には、都市の個性・魅力づくり、地域の活性化・豊かな地域づくりなど様々な期待が込められています。

松平親氏公 銅像

「松平郷園地」では、春はサクラ、初夏にはハナショウブやアジサイの花々、

秋にはハギの花や紅葉など、四季を通じてさまざまな自然の風景を楽しむことができます。

松平八代を象徴する「石柱」や「親氏像」、室町時代を連想させる「土塀」や

「冠木門(かぶきもん)」、武家屋敷風の休憩所「天下茶屋」などがあり、

歴史の風情を楽しみながらの散策ができるスポットとなっています。

冠木門

天下茶屋

武家屋敷風休息所 天下茶屋

所在地  〒444-2202  豊田市松平町赤原34-5
営業時間 午前10:00 ~ 午後4:00

定休日  水曜日

電話番号 0565-58-3725

ホームページ http://matsudairagou.jp/chaya/

室町塀

松平氏の菩提寺「高月院」に至る250mの遊歩道沿いにある「室町塀」

高月院

高月院

367年足助次郎重宗の子、重政( 寛立上人) が松平郷主在原信重の援護を受けて「寂静寺」として建立したと言われています。1377 年に親氏が本尊阿弥陀仏をはじめ、堂・塔のすべてを寄進してから「高月院」と改め、松平氏の菩提寺となっています。 その後、徳川家康によって寺領100 石が与えられ、明治維新まで時の将軍家から厚い保護を受けていました。 山門や本堂は、1641 年に徳川家光によって建てられたものと言われています。

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