荏柄天神社(天神山 100m)天神山陣地跡・新城市長篠字碁石




荏柄天神社(天神山 100m)天神山陣地跡・新城市長篠字碁石

新城市長篠字碁石、長篠城跡から北西500m余

医王寺の南200mの所に、荏柄天神社が鎮座します

この神社の本殿のあるところは、天神山(100m)と呼ばれており。

「長篠の戦い」において武田軍の陣地になりました。

社殿の背後にある天神山陣地跡(天神山 100m)には

「長篠の戦い」の時に武田軍「一条信龍・真田信綱・真田昌輝・土屋昌次」ら

二千人の軍が陣地を置いた所でもあります。

医王寺山より

中央にみえる小高い丘が天神山、手前に医王寺

大通寺山 天神山の間に長篠城跡

常寒山~船着山の稜線下、5つのピークに武田軍の砦がありました

参道の石段123段の内

88段は遷宮された下総国から運んだものと伝わる

新城市指定文化財

(建造物)荏柄天神社本殿

新城市長篠字碁石

由来

本社は源頼朝が勧進創立し、足利氏を経て一色氏の守護神になった(縁起)。元禄11年(1689)10月、一色氏の所領変えにより、下総国(千葉県)木之崎村より現在地に遷宮造営された。本殿は、全体的に形姿がよく整い細部に唐様(からよう)や天竺様(てんじくよう)を折衷しりほか、袈溝、組物なでの随所に奇抜がみられる。虹梁(こうりょう)、木鼻(きばな)、懸魚(けぎょ)などの繰(く)り形、絵様や擬宝珠(ぎぼし)の形も優れ、蛙股(かえるまた)、脇障子(わきしょうじ)の彫刻なでも意匠にも見るべき点が多く、桃山建築装飾の名残をよくとどめている。

構造

一間社流造(いっけんしゃながれつくり)

こけら萱 正面唐破風付

裄行:1.39m 梁間:1.39m

参道

荏柄天神社の縁起

荏柄天神社の縁起

この荏柄天神社は、八百年に歴史をもつ由緒あるお宮ですが、ただ古いというだけではなく、これほど数奇な運命をたどってきたお宮はほかに例がないでしょう。この社に伝わる「荏柄山天満宮縁起」によりますと源頼朝が鎌倉の荏柄の地に草創したことにはじまります。足利尊氏や一族も大変尊崇しました。応仁の乱のころ、戦乱を避けて古河に移されました。ここは大福田村といって立派な社であったようです。のちに足利氏が一族の一色氏に祭祀を委任しましたので、その後は一色氏の所領がかわるたびに社も遷されました。武州幸手の庄から下総の小文間、そして葛飾群木の崎村と関東の地を三、四たびとかわって、この長篠の地へは、元禄十一年またまた一色氏の所領替えにともなって移ってこられたのです。この時、別当職であった満福寺の僧匠仙が、これまでの五百年の変遷を書き留めたものが「荏柄山天満宮縁起」なのです。

それから長篠の地でお祀りして三百年が経ちました。文政九年に再び新社殿造営が行われました。それまでのできごとや普請の様子など詳しい記録があります。明治になって一色氏はこのお宮のすべてを長篠の村人に委ねることになりました。今日まで百年余、たびたびの補修も時の流れに勝てず、平成四年長篠で三たびの御普請となってものです。ただ、黒末塗極上細美の神殿は覆殿の中にあって何百年もの風雪から護られ一点の腐朽もなく御神体とともに今日に伝えられております。

医王寺東塔尚行先老師依御遣志書之 平成四年十一月

天神山陣地 二千人
一条信龍 山梨・西八代・上野の城主、信玄の弟
真田信綱 長野・小県・松尾の城主、幸隆の長男
真田昌輝 信綱の弟
土屋昌次 山梨・中巨摩・島上条に住む。
東方に長篠城を望み、また西方の設楽原方面が監視出来る場所である。この陣地から長篠城を盛んに攻めた。
五月十三日の夜、大手門の前へ望楼を建て城中を見おろそうとしたが、城中から鉄砲で壊された。
同二十日、豊川を渡って設楽原へ進出し、連吾川上流付近へ陣をしく。
同二十一日、織田・徳川連合軍との決戦、真田兄弟・土屋昌次は戦死した。
天神山・・・元禄十一年(一六六八)旗本一色氏が旧領から天神社をこの場に移した。それより天神山という。

元禄11年(1689)10月

一色氏の所領変えにより、下総国(千葉県)木之崎村より

現在地に遷宮造営されました。

御祭神は菅原道真公、例祭日は10月25日。

本殿

天神山(100m)

荏柄天神社〜医王寺〜大通寺の区間は

「長篠の戦い歴史探訪コース」として整備されている

天神山(100m)の山頂付近からは決戦地となった設楽原方面に展望がある

岩代陣地 二千人
内藤昌豊 群馬・西群馬・箕輪城代
小幡信貞 群馬・北甘楽・国峯城主
内藤昌豊のひきいる西上野(群馬県西部)の将士は豊川左岸に陣し長篠城を攻めた。設楽原決戦では、武田軍中央決隊としてはげしく戦い内藤はじめ多くの人が討死した。

有海村陣地 一千人
山県昌景 静岡・庵原・江尻城代
高坂昌澄 長野・松代・海津城の弾正昌宣の子
長篠攻めでは遊軍として豊川の対岸に陣をしく、設楽原決戦では、山県は左翼隊として戦って討死。高坂昌澄は長篠城の押さえとして残ったが後段の乱戦で討死。

篠場野陣地 千五百人
武田信廉 山梨・東山梨・桜井に住む、信玄の弟
穴山信君 山梨・南巨摩・下山城主、勝頼の従弟
原 昌  譜代の家老、陣場奉行
菅沼貞直 愛知北設楽・田峯城主・定忠
対岸に陣し、長篠城野牛郭を攻撃した。設楽原決戦では、左翼隊として戦い原は討死した。

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