宗良親王 御墓(井伊谷宮)




宗良親王 御墓(井伊谷宮)

宗良親王 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/宗良親王

浜松市北区引佐町井伊谷、

龍潭寺の横にある井伊谷宮の裏に宗良親王の御墓があります。

井伊谷宮の祭神も宗良親王です。

異 称  信濃宮・大草宮
生没年  応長元(1311)年~元中2(1385)年
続 柄  (父)後醍醐天皇、(母)二条為子

14歳で妙法院にて出家、同門跡を継承し、5年後には天台座主に任ぜられた。
しかし父後醍醐天皇が元弘の変を起こし失敗すると、連座して讃岐国へ配流となった。
後に父天皇が復権すると再び天台座主を務めたが、建武政権が崩壊して北朝方との争いとなると
還俗して宗良と称して主に吉野で活動した。
この後は遠江の井伊谷、そして信濃の大河原を拠点として北朝方と戦った。
正平の一統(一時的な南北朝統一)の際は征夷大将軍に任ぜられ鎌倉へ赴いたが、
占拠し続けることが出来ずに再び大河原に戻り、勢力が減退すると吉野へ戻った。
このころは既に南朝方は3代目の長慶天皇の代で勢力は著しく衰えており、
親王は『新葉和歌集』の選集に携わっていた。
なお最晩年は信濃の大河原、もしくは井伊谷で余生を過ごしたという。享年74歳。

宗良親王 御墓

明治時代に入って間も無く、明治天皇は全国の陵墓が荒廃著しい事を憂い、
その修繕整備をお命じになれれました。
それと共に王政復古の象徴として吉野朝(南朝)方を支えた貢献者を祀る神社を
創健するよう勅命を下されました。
これに伴い、後醍醐天皇皇子宗良親王薨去の後、およそ500年に亘り
代々その菩提を弔ってきた井伊家の当主、井伊中将直憲(彦根藩最後の藩主)が、
親王を御祭神とする井伊谷宮の創健と親王御墓の修繕を願い出たところ、
井伊家の祖道政公と親王との特別な由緒をもって許可され、
いずれもほぼ井伊家の負担にてなされました。
このようにかつて井伊直虎を輩出した井伊家は
井伊谷宮とも深い関わりを持っているのです。

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