第32代 崇峻天皇(倉梯岡陵)・奈良県桜井市大字倉橋




第32代 崇峻天皇(倉梯岡陵)・奈良県桜井市大字倉橋

奈良県桜井市大字倉橋

第32代 崇峻天皇(すしゅんてんのう)「古事記では長谷部若雀天皇」

倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)

倉橋のバス停から南に下った倉橋川沿いにあります。(駐車場有り)

蘇我馬子に擁立されて、第32代崇峻天皇として即位したが、

わずか在位5年で、蘇我馬子により暗殺され、即日葬られました。

第32代 崇峻天皇

諱  泊瀬部

異称 長谷部若雀天皇

誕生 553年?

崩御 592年12月12日?

在位 587年9月9日? – 592年12月12日?

用明天皇2年8月2日 – 崇峻天皇5年11月3日

続柄 (父)欽明天皇(母)蘇我小姉君

記紀の皇室系譜では第32代の天皇。欽明(きんめい)天皇の皇子で、母は小姉君(こあねのきみ)(蘇我稲目(そがのいなめ)の娘)。泊瀬部(はつせべ)天皇(『日本書紀』)、長谷部若雀(はつせべわかさざき)天皇(『古事記』)、倉橋(くらはし)天皇(『法王帝説』)ともよぶ。倉梯(くらはし)(奈良県桜井市倉橋)に宮居したと伝え、この天皇の代に百済(くだら)から僧恵総(えそう)らが渡来し、また寺工、鑪盤博士(ろばんはかせ)、瓦(かわら)博士、画工らが来朝した。また蘇我氏は法興寺を588年(崇峻天皇1)に造営し始めたという。591年、朝鮮半島の情勢変化に対応しようとして北九州に大軍を集結させたが、592年11月、蘇我馬子(うまこ)は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて天皇を暗殺させた。陵墓は倉梯岡上(くらはしのおかのうえ)陵(桜井市倉橋)

欽明天皇の第十二子。母は蘇我稲目の娘小姉君。
578年用明天皇が疱瘡で崩御するとにわかに戦乱の機運が高まった。
蘇我馬子と物部守屋との対立は、先帝用明天皇のときにすでにはじまっていた。穴穂部皇子の三輪君逆斬殺により決定的となった。
物部守屋は皇位を狙う穴穂部皇子を押し立てて狩を名目に兵を集めた。
この様子をみた蘇我馬子は炊屋姫尊を奉じて、佐伯連丹経手らに穴穂部皇子・宅部皇子を殺害させた。
これにより蘇我馬子と物部守屋との直接抗争となり、蘇我馬子陣営は、炊屋姫尊(後の推古天皇)・泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)・竹田皇子・厩戸皇子(聖徳太子)らを味方とし、一方物部守屋陣営は味方がおらず孤立したが、物部の名が示すように武力にかけては当代一流で右に出るものはないほど優れていた。
守屋は一族と奴を率いて本拠の渋河に篭り応戦した。
激戦は数度に及び、次第に守屋の劣勢は動かし難いものとなった。
そしてさしもの歴戦の勇者も天命が尽きて、衣摺(東大阪市)で迹見首赤檮(とみのおびといちい)に射殺された。
この後587年に泊瀬部皇子は即位して崇峻天皇となった。
しかし、政冶の実権は馬子にあり次第に崇峻と馬子は反目するようになった。
先帝の遺言を果たすため、崇峻天皇は任那再興のため新羅を討つべく、筑紫に向けて軍を発向するが、その留守を狙って馬子は、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を使って崇峻天皇を暗殺(592年)した。
この後、崇峻天皇に対して「モガリ」の儀礼を行うこともなく、ただちに倉梯岡の陵に葬られたという。
蘇我馬子の残忍な性格がよく出ている場面だ。
しかし、読者諸兄安心したまえ、因果は巡るというではないか。
蘇我氏は入鹿の代になり中大兄皇子・中臣鎌足に首を刎ねられることになる。

文武天皇(倉梯岡陵)

代数
第32代
天皇名
崇峻天皇(すしゅんてんのう)
御父
欽明天皇
御母
妃蘇我小姉君
御陵名
倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)
陵形
円丘
所在地
奈良県桜井市大字倉橋

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