第1代 神武天皇(畝傍山東北陵)・奈良県橿原市大久保町
奈良県橿原市大久保町
初代神武天皇 畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)
古墳名は四条ミサンザイ古墳
畝傍山の北東の麓、橿原神宮の北にあり、
円丘で周囲は約100m、高さ5.5mの広い植え込みがあり
幅約16mの周濠をめぐらせています。
記紀によると、第1代天皇とされる神武天皇は日向の国(現在の宮崎県)から、
瀬戸内海を東に進んで難波(現在の大阪府)に上陸しましたが、
生駒の豪族に阻まれたため、南下して熊野に回りました。
そこで出会った3本足のカラス、「八咫烏(やたがらす)」に導かれて、
吉野の険しい山を越えて大和に入り大和地方を平定しました。
そして、紀元前660年の1月1日(新暦2月11日)に橿原宮で即位されました。
御陵入口前には無料の駐車スペースがあります
砂利道を通り抜けると広大な神武天皇陵が現れます
名は神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)、神武は諡号
「記紀」によればニニギノミコトの曾孫
鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあわせずのみこと)の子、母は玉依姫(たまよりひめ)
日向を出発して瀬戸内海を東進し,難波に上陸したが、
長髄彦(ながすねひこ)の軍に妨げられ、迂回して吉野を経て大和に攻め入り、
ついに大和一帯を平定、前 660年大和畝傍橿原宮に都し、元旦に即位し
媛蹈韛五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)を立てて皇后とし、
127歳で没したと伝えられる。
畝傍山(うねびやま)の北東の麓、橿原神宮に北接する神武天皇陵は、円丘で周囲は約100m、高さ5.5mの広い植え込みがあり、幅約16mの周濠をめぐらせています。
日本書紀、古事記によると、初代天皇とされる神武天皇(在位:前660年~前585年)は日向(宮崎)地方から、瀬戸内海を東に進んで難波(大阪)に上陸しましたが、生駒の豪族に阻まれたため、南下して熊野に回りました。そこで出会った3本足の「八咫烏」(やたがらす)というカラスに導かれて、吉野の険しい山を越えて大和に入り、周辺の勢力も従えて、大和地方を平定しました。そして、紀元前660年の1月1日(新暦2月11日)に橿原宮で即位し、初代の天皇になりました。
第1代 神武天皇
諱 彦火々出見、狭野
異称 磐余彦帝、若御毛沼命、豊御毛沼命、始馭天下之天皇
誕生 庚午年1月1日庚辰
崩御 神武天皇76年3月11日 宝算127
在位 神武天皇元年1月1日 – 神武天皇76年3月11日
続柄 (父)彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(母)玉依姫
神武という名は8世紀後半に贈られた中国風の諡号(しごう)である。『日本書紀』によれば、国風諡号は神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)。高天原(たかまがはら)から南九州の日向(ひゅうが)に降(くだ)った瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の曽孫(そうそん)で、鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の第4子、母は海神の女(むすめ)玉依姫(たまよりひめ)。45歳のとき、船軍を率いて日向を出発し、瀬戸内海を東へ進み、難波(なにわ)に上陸して大和(やまと)に向かおうとしたが、土地の豪族長髄彦(ながすねひこ)の軍に妨げられ(東征)、方向を変え、紀伊半島を迂回(うかい)して熊野から大和に入り、土豪たちを征服し、ついに長髄彦を倒して、日向出発以来、6年目(『古事記』では16年以上かかる)で大和平定に成功し、辛酉(かのととり)の年元旦(がんたん)、畝火(うねび)(橿原(かしはら)市の地)の橿原宮で初代の天皇の位につき、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と讃(たた)えられた(大和平定)。そして媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)(『記』では比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ))を皇后とし、在位76年、127歳(『記』では137歳)で没して畝傍(うねび)山東北陵に葬られたという。
記紀における神武天皇は、神の代から人の代への接点に位置する神話的な人物であり、即位の辛酉の年(紀元前660年)は中国の讖緯(しんい)思想によってつくられ、事績には神話的な色彩が濃く、史実を伝えるものはほとんどないといわれる。しかし、神武天皇の物語の核心をなす東征の部分には、皇室の遠い祖先が西方からきたという記憶が反映しているとみる説もある。
神武天皇(畝傍山東北陵)
代数
第1代
天皇名
神武天皇(じんむてんのう)
御父
鸕鶿草葺不合尊
御母
妃玉依姫命
御陵名
畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)
陵形
円丘
所在地
奈良県橿原市大久保町