秋葉街道 塩の道・秋葉山 表参道
これまで「秋葉街道(塩の道)」を歩いて来たので、
改めて秋葉山を表参道から秋葉常夜燈や遺構を確認しながら登ってきました。
一般的に秋葉山の表参道は、
坂下宿の入口に掛かる九里橋より50丁(5.35km)とされていますが、
これは距離を等分した道標で、実際には38丁(4.14km)あるといわれています。
参道に残る常夜燈ですが、一番多い嘉永5年式は25基、町石のものは5基、
10丁毎に置かれた物が3基、その他に、5丁目や随身門付近に
異なった年代の物が数基残っています。
それぞれ刻む丁数、距離や間隔にも違いがあって、
道標としては全く機能していない感じです。
下山は、富士見茶屋からのバリエーションを下り、坂下〜久保田集落間の道を散策しました。
秋葉街道 塩の道・秋葉山 表参道
難易度 ★ オススメ ★★★ | 登山口(ナビ検索) 表参道登山口 |
秋葉山表参道駐車場(07:43)→秋葉神社上社(09:21)→秋葉山表参道駐車場(10:53) 所要時間 3時間09分 累積標高 894m / 2894m 距離 10.9km | |
■秋葉街道(あきはかいどう)は、各地から秋葉大権現に通じる参詣者が向かう道の総称で、幾筋の道が存在する。「塩の道」と呼ばれるのは、遠州の相良から信州の塩尻を結ぶ約200 kmのルートである。途中の静岡県菊川市には「塩買坂(しおかいざか)」、掛川市には塩問屋が集まっていたという「塩町」など、塩にちなむ地名が残されている。終点の塩尻という地名も、相良から運ばれてきた塩の終着点を意味し、そこから更に山あいの村々へと運ばれていった場所だったことに由来する。 |
表参道駐車場
秋葉山 貸切の表参道駐車場。
山中に残る遺構を見ながらのんびり登りたいと思います。
九里橋の手前左側に道標。
「至神社従是三十〜(中央)」「昭和十二年〜(左)」「津市〜(右)」と刻む。
この道標はこの先にもある「津市岩田秋葉講」が十丁毎に建てた物だと思います。
秋葉山の表参道は50丁ありますが、正確には38丁(4.14km)で、
この道標には三十八丁と刻んであるといいます。
十丁毎のため当初は四十丁と刻んであったものを、直した跡も残っています。
九里橋
坂下宿の入口にかかる橋は「九里橋」と呼ばれ、
秋葉山への表参道50町の起点となっています。
九里という橋の名前は、東海道の掛川宿及び浜松宿・袋井宿からの距離が9里(九里)
にあたることから名付けらました。
九里橋は天竜川の支流、気田川へ注ぐ栃川に架かっており、
かつては木製の橋であったが昭和16年(1941)の洪水で流失してしまいました。
昭和38年(1963)にコンクリート製の橋に架け替えられた際に欄干を赤塗で再現しました。
マルハク山林道
「昭和御大典記念開鑿(右)」「昭和三年十一月(左)」
地元のマルハク林業が昭和3年に建設した林道です。
ここ九里橋の袂からは高瀬道(秋葉古道)の四つ辻へと続く道がありました。
(林道は途中崩壊、現在は廃道)
気田川沿いの久保田集落からは秋葉古道の「久保田古道」が通っており、
ここ坂下口に対して「東口」とも「久保田口」ともいわれています。
この道は主に中川根や杉、気田方面の人々が利用したといいますが、
険しい山道のため婦女子達はこの道を通り坂下口まで回ってきたといいます。
坂下集落
秋葉山の麓にあって表参道の入口にあたる集落です。
沢沿いに続く急峻な坂に沿って茶屋や旅籠が立ち並び、
往時は坂下宿として多くの旅人を迎えていました。
平成初期には全ての旅館が営業をやめてしまいましたが、
現在も茶屋や旅籠の面影を残す趣のある建物が多数残されています。
なかや跡
「天竜川と秋葉街道」には、ここ「なかや」前に
一丁目の常夜燈があったと書いてあります。 現在は新しい常夜燈が建っています。
表参道常夜燈(三丁目)
左手の土蔵「た可きや資料館」前に「第三丁目」の石標。
嘉永5年(1852)2月、遠州天宮の木田仁右衛門により寄進。
町石(丁石)とは一丁(109m)毎に置かれた道標です。
この最も多い常夜燈は幕末の嘉永5年(1852)2月、秋葉山御開帳のときに建てられたもので、
いずれも竿部左に寄進者、右に「嘉永五壬子(1852 年) 二月開帳日」と刻まれている。
嘉永5年式の物は表参道には27基残存しているとありますが、
この日25基を確認しました。(一丁目と、五丁目に3基ある内の1基が不明)
表参道常夜燈・町石(四丁目)
嘉永5年(1852)2月、遠州 金谷宿の講中により寄進。
またこの町石(丁石)タイプの物は、「静岡県歴史の道 秋葉街道」(平成8年(1996)発行)
によると、20丁目より下にに9基(③④⑤⑥⑬⑭⑯⑱⑳)残っているとの事でしたが、
既に③は見当たりません。
この後⑤も不明で、結果7基は確認出来ました。
20丁目より上には無く、実際の距離や嘉永5年式の常夜燈とも間隔が前後します。
日付や寄進者も刻まれていません。
表参道常夜燈(五丁目)
一際大きな左の常夜塔は寛政7年(1795)5月の江戸三河町一丁目講中より寄進されたもの。
両対に嘉永5年(1852)式の物が2基対に建つ。(某寄進)
一の鳥居跡(三の鳥居跡)
秋葉山の表参道の5町目には、秋葉山表参道沿いとしては1つ目の鳥居が建っていました。
「静岡県歴史の道 秋葉街道」には「秋葉山一の鳥居」として記載されているが、
現地には「三の鳥居跡」の案内板が建っています。(三の鳥居は浜松宿の一の鳥居より数えて)
この鳥居は正徳4年(1714)6月1日、彦根第7代藩主井伊直惟が建立したそうで、
表には「金明嶺」裏には「金光明大法輪」の額が掛かる銅鳥居であったという。
戦時中に金属品供出によって銅版が はがされた経緯があり、
本体は昭和30年代まで残存したというが、現在は基礎も残っていない。
秋葉山総本山秋葉寺 里坊 千光寺
気田川
表参道 町石(六丁目)
「三河屋茶屋跡」の石垣が残る手前に建つ。
山頂にあった三河屋が営んでいたそうです。
表参道常夜燈(八丁目)
度重なる道の改修により埋もれてしまった八丁目の常夜塔。
何とかならなかったのでしょうか。
嘉永5年(1852)2月、遠州桓武の小栗武右衛門より寄進。
表参道常夜燈(九丁目)
嘉永5年(1852)2月、遠州向島の河村利右衛門より寄進。
千光寺で行われている勤行の太鼓の音が山中に響きます。
表参道常夜燈(十丁目)
嘉永5年(1852)2月、遠州内野の横田某 より寄進。
この嘉永5年式の物は何れも火袋が枡形で、竿部分には「傘や金」に似た柄の下に
「常夜燈」と彫られています。
裏参道の物は竿部に丁目が彫られていましたが、
表参道の物は何れも同じデザインなので正確な丁目は判別出来ません。
参道整備で移動した物が多く、こちらも距離や間隔は正確ではありません。
三十丁の道標
九里橋前にあった物と同じ道標
「津市岩田秋葉講中(右)」「至神社従是三十丁(中央)」「昭和十二年(左)」と刻む。
表参道常夜燈(十三丁目)
嘉永5年(1852)2月、遠州安間村の金原久右衛門より寄進。
常夜燈
「表参道に残る常夜灯の多くは寛永五(一八五二)年二月の開帳時に奉納されたもので、この十三丁目の常夜灯の寄進者 金原久右衛門は治山治水の社会事業家 金原明善の父君である。」
もみじ茶屋跡
十三丁目には「もみじ茶屋跡」 石垣が残る
表参道常夜燈(十四丁目)
嘉永5年(1852)2月、駿州田尻の村松久兵衛らにより寄進。
十四丁目付近の坂は「小豆坂」と呼ばれている。
表参道 町石(十三丁目)
表参道常夜燈(十五丁目)
嘉永5年(1852)2月、駿州島田宿の川方中により寄進。
表参道常夜燈(十六丁目)
嘉永5年(1852)2月、某寄進。
表参道 町石(十四丁目)
表参道常夜燈(十七丁目)
嘉永5年(1852)2月、某寄進。
この嘉永5年式の全体像がはっきりと判る常夜燈。
「十八丁目茶屋跡」の石垣
表参道常夜燈(十八丁目)
十八丁目の常夜塔の傍には風化した地蔵像。
嘉永5年(1852)2月、三州吉田宿の魚町講中により寄進。
十九丁目付近の平地は「ちょぼいち平」と呼ばれ、
秋葉火祭り大祭(12月15日・16日)には各地より博徒が集まり
賭博を開いた場所(秋葉参道の各所にあった)だという。
表参道常夜燈(二十丁目)
嘉永5年(1852)2月、駿州藤枝宿の人々により寄進。
二十丁目付近には「ふじみや仁平茶屋」「さくら茶屋」があったといいます。
(正確にはさくら茶屋は二十八丁目ともいわれています)
現在、確認出来ている茶屋は6つですが、
当時は参道沿いに沢山の茶屋(他に扇屋兼吉茶屋など)があり、
三の鳥居以降に10軒程出店していたそうです。
表参道 町石(十六丁目)
壊れて読めませんが、間隔と「静岡県歴史の道 秋葉街道」に掲載されている事から
「十六丁目」で間違い無いと思います。
表参道常夜燈(二十三丁目)
嘉永5年(1852)2月、駿州城之腰村の人々により寄進。
表参道 町石(十八丁目)
表参道常夜燈(二十七丁目)
嘉永5年(1852)2月、駿州城之腰村北新田・同鰯ヶ島村漁船中により寄進。
よく見ると火袋の中には小さな小石が幾つも詰め込まれていますが、
これは道者が安全祈願のため、一丁登る毎に小石を入れる習慣があったためだといいます。
手間には、表参道 町石(二十丁目)
その後ろに2基の表参道常夜燈(二十八丁目) 対をなす常夜塔は
嘉永5年(1852)2月、駿州の某・駿州北新田村中により寄進。
富士見茶屋跡
富士見茶屋は通称三十丁目で、町石は二十丁、常夜燈は二十八丁と、もう訳がわかりません。
真相は多分こんな感じ。昭和の大火前、富士見茶屋はこの先の三十丁目の左側にあり、
元々この場所には「さくら茶屋(本家)」がありました。
二十丁目に「さくら茶屋」があったと書かれているものもありますが、
これが分家なのか間違いなのかは不明です。
富士見茶屋跡
ここは表参道の三十丁目。往時は富士山をはじめ遠州灘や天竜川、そして犬居の町並みまで見渡せる景勝地でしたので、数多くの秋葉道者が店に立ち寄ってくださいました。しかし昭和十八年三月の大火で家屋が全焼、茶屋としの歴史の幕を閉じました。その後住居を再建し暮らし続けるも、寄る年波には勝てず昭和六十二年に山を下りることになりました。いまは、思い出の詰まった母屋を残すのみ。
表参道常夜燈(三十丁目)
嘉永5年(1852)2月、駿州中里村の人々により寄進。
ここに「富士見茶屋」がありました。この辺は平地で、
確かに木々がなかったら景色が良さそうな場所です。
表参道常夜燈(三十丁目)
二の鳥居(四の鳥居跡)前には、倒壊した対をなす2基の常夜燈。
文化3年(1803)5月、尾州知多郡の村人達より寄進。
三十丁目 二の鳥居跡(四の鳥居跡)
二の鳥居跡 (四の鳥居跡)
「いまも残る礎石の上に、かつて「最勝関」と書かれた縦五尺横二尺七寸の額が掛かっている銅鳥居が建っていた。明和二年(1765)年八月に秋葉寺三十七世住職任超和尚の請に応じた八十三歳の面山和尚が揮毫した額と伝えられる。」(案内板より)
子安地蔵
光背には梵字と共に三十丁の文字が読みとれる。
ここを現代では三十五丁目とするものもあり、
実際の丁目や置かれていた場所などはわかリません。
穴が開いた柄杓が供えられているのは、水が抜け落ちてしまうように、
安らかな痛みの少ない出産を願うもの。
昔はお堂に祀られていたが、大火で類焼したのだという。
子安地蔵を過ぎると、表参道唯一の展望ポイント
鉄塔付近にはベンチも据えられています。
表参道常夜燈(四十丁目)
嘉永5年(1852)2月、駿州藤枝宿の人々により寄進。
30丁目以降、間隔が異常に短くなります。
表参道常夜燈(不明)
嘉永5年(1852)2月、寄進者不明
三十七丁目にある「信玄岩」
戦国時代、甲斐の武田信玄が光明山に陣取る徳川家康に向けて
この岩に足を掛け強弓を放ったという伝説があります。
ここを挟んで南西を権現谷、北東を信玄谷と呼びます。
話の流れから権現は家康を指すのでしょうが、ここは三尺坊のお膝元、真相は不明です。
十丁の道標
「至神社従是十丁」 「津市岩田秋葉講」「昭和十二年五月」
九里橋にあった物と同じ「津市岩田秋葉講」の建てた物。
この道標が実際の距離に一番近いのではないでしょうか。
表参道常夜燈(四十五丁目)
秋葉寺仁王門の前には4基の常夜塔 手前2基は、
嘉永5年(1852)2月、駿州見付宿の若狭屋・駿州藤枝宿の吹屋町 鍛冶屋の人々により寄進。
表参道常夜燈(四十五丁目)
奥2基は、嘉永5年(1852)2月、駿州都築村の石原孫兵衛・駿州藤枝宿の人々により寄進。
秋葉寺 仁王門
秋葉寺
当山が秋葉山山頂に伽藍を連ねていた江戸時代の中ごろ、御山の守護神である秋葉三尺坊大権現の火防の霊験を中心とした秋葉信仰が全国規模で爆発的な高まりを見せ、四通八達した秋葉道をたどって数多くの参拝者が御山を訪れるようになった。明治十三年この地に堂宇を建て復寺を果たした後も真殿に秋葉三尺坊を奉祀しているので、この寺の通り名を「三尺坊」と言う。十二月十五日、十六日が例大祭日。
秋葉大権現の扁額
秋葉信仰の広まり
貞享2年(1685)に信者の団結を恐れた江戸幕府は秋葉祭の禁止令を出します。 また同年、袋井市の春日明神の神主が、隣地の火災時に秋葉山を祈願し火災を免れました。
こんな事が噂を呼び、幕府の方針とは逆に一般の人にも秋葉信仰が広まって行くこととなります。
この後、東京の秋葉原はじめ、全国各地に分祠されるなど、秋葉山は最盛期を迎えて行きます。
秋葉寺
中世以来、神仏混交のため山頂の秋葉大権現(三尺坊・本地仏は観音菩薩)には寺と神社が混在していました。
明治になると、神仏分離・廃仏毀釈令により山頂の寺は撤去されます。(神社側は明治六年(1873)に改めて秋葉神社として建てられました。)
さらに明治五年(1872)に時の住職が入寂すると、神仏分離を推し進めたかった当局に無住寺と判断され、無住の寺は廃寺するという方針に沿わされました。
この時に三尺坊の御真躰と観音像は袋井の可睡斎に遷されました。 その後、明治十三年(1880)に信徒の強い要望で再建を果たしますが、山頂は既に神社側の境内となってしまったため、ここ「杉の平」に建立されることになります。
三尺坊の御真躰は可睡斎にあるため(観音像は返却)、東京都江東区深川にあった中央寺から勧請したといいます。
秋葉信仰
元々、秋葉山の北方12kmにある竜頭山には奈良時代から聖観世音菩薩を奉じた大登山霊雲院がありました。
ここに勝坂不動や勝軍地蔵が安置されたことにより、戦の勝利祈願のために平安時代から刀剣の奉納記録があります。
竜頭山の山頂は古代からあった自然崇拝(磐座信仰)と共に鎌倉時代からは山岳修験道の一大道場となって行きます。
後に平地が多く人里に近い山脈南端の秋葉山へ信仰の中心が移動して行き、秋葉大権現が出来たと考えられいます。
秋葉寺 本堂
火防の神
火防の神 秋葉大権現ですが、この火は焼畑農業の(延焼防止)火といわれています。 高冷地で米作には適さないため、古来から春野〜水窪方面では焼畑農業が盛んに行われて来ました。
この時に使う火の神が秋葉信仰の元といわれています。 秋葉山から約25km北方には山犬信仰の聖地の「山住神社」があります。農地をあらす害獣の天敵である山犬(狼)を祭り、駆除や豊作を祈願しました。また塩を好む山犬を恐れた塩商人もお参りしたといいます。
修験者
竜頭山から秋葉山一帯は鎌倉時代には熊野修験道が盛んであったといわれています。
修験者は山々を駆け巡るなど、一般人には到底及ばないような心身の鍛錬をして宗教的呪術の習得に尽くしました。 里の住民からは困り事の相談を受け、病気の際には祈祷や占いをし、薬やお札を配布して住民の気持ちを鎮めたりしました。また、山で採れる鉱物や薬草、塩やお茶などの斡旋、芸能の伝播(神楽等)にも一役買っていました。 また山伏は山武士ともいわれ、裏街道の斡旋や隠密として戦国武将が情報収集に利用する存在でした。
三尺坊大権現
秋葉山に火の神が結びついたのは、大同四年(809)越後国(新潟)の蔵王堂十二坊うち三尺坊に住む修験者が秋葉山に来山し、修業の末に秋葉権現(火消しの力を持つ天狗)となりました。 それ以来、山号 寺号を秋葉山秋葉寺と改め、神仏習合の神様(本地仏 観音菩薩)として信仰を集めていきました。
またこの山には水が乏しかったため、三尺坊が神勅を蒙って天龍八部を招請したところ一夜にして泉が湧き出しましたといいます。その泉の中にいたガマガエルの背中に「秋葉」と映し出されたことから秋葉寺と号したといいますが、この件を含めて寺側と神社側では意見が異なることも多いです。
出世大黒天を祀る「開運大黒天堂」
礼所のお札
本尊は聖観世音菩薩と秋葉三尺坊大権現が安置されており、脇侍には十二面観世音と勝軍地蔵、四天王がすえられているといいます。
三尺坊大権現は秘仏となっており御開帳時以外には見ることが出来ませんが、烏形両翼の羽をもち、手に羂索をもった立姿で白狐に乗っているといい、礼所に置かれているお札の姿と一致します。
秋葉古道の地図
礼所には秋葉古道(主に尾根道)の案内図があります。
秋葉古道とよばれる尾根伝の道は、「奥の院街道」「東国街道」「峰道」
「大祝道(古代諏訪信仰の神人達が巡った信仰の道)」「塩の道」など
さまざまな呼び名があります。
秋葉山表参道三の鳥居跡(五の鳥居跡)
「寛政十(1798)年に甲州の人々が寄進した銅鳥居で、秋葉寺三十八世住職粱和尚の筆になる(護国嶺)の額が揚げられていた。いまは基礎部分と横たわる二本の朽ちた柱を残すだけである。」(案内板より)
手前には秋葉燈の跡でしょうか、基礎のみ残っています。
唯一大火を免れた随身門が近づくと道幅が広くなり、
老杉 老檜が残る参道に変わります。
御旅所跡
随身門の手前右側の石垣がまわしてある一角は秋葉神社の御旅所跡。
御旅所は、神社の祭礼において神(神輿等)が巡行の途中で休憩または宿泊する場所。
建築物の名残りか瓦などが残っています。
随身門
2018年の台風による倒木で屋根を損傷し現在は修復工事中の随身門。
復元された彫刻も元の位置に戻され、あと少しで門を通ることが出来そうです。
随身門の前には6基の常夜燈 手前より、寛政6年(1794)9月・寛政5年(1793)5月、
対をなす2基は尾州名古屋の桑名屋伊右衛門により寄進。
明和丁亥(1767)5月 某寄進。天明9年(1789)1月 遠州榛原郡川尻村の人々により寄進。
宝暦9年(1759)11月 三州宝飯郡前芝村の山内善左衛門により寄進。
嘉永2年(1849)初夏 某寄進。
秋葉神社 随身門
昭和18年の大火を免れ、秋葉山として栄えた江戸時代の俤を偲ばせる唯一の建物。
元々、この門は秋葉寺の仁王門として天保二年(1831)年六月に建てられたもので、
門の正面には「大登山」の山号額と、背面に「秋葉寺」の寺号額が掲げられていました。
明治の廃仏毀釈に伴い随身門となり、左右に随身像が据えられ、
「火防秋葉神社」の社号額に変えられました。
随身門後ろにも6基の常夜燈
奥より、文政11年(1828)6月・文政2年(1819)6月、対をなす2基
掛川藩家中と町在により寄進。
文政5年(1822)1月 対をなす2基 遠州見付宿の人々により寄進。
文政2年(1819)12月 山田好諄により寄進。
永代常夜燈
尾張名古屋志水の近江屋市兵衛らにより寄進。
元は文政13年(1830)に建てられたものを嘉永3年(1850)5月に再建。
江戸時代の面影を残す参道
現代工法で詰まれた石積みと、 自然石を使用した野面積。
ちょうど古い石積みの修復工事をしていた最中で、
仮設の通路から貴重な作業を見ることが出来ました。
幸福の鳥居 ようやく秋葉神社に到着。
見慣れた鳥居ですが、こうして秋葉街道を色々と調べて歩いて来ると
感慨深いものがあります。
秋葉の火まつり(防火祭)
毎年、12月15・16日には舞殿で秋葉の火まつり(防火祭)が執り行われます。 第一に火災焼亡の危急を免れ、第二に洪水波没の難を免れ、第三に諸厄諸病の難を免れ給うと、多くの人々の願いをこめて、三人の神職によってそれぞれの弓の舞・剣の舞・火の舞の三舞が、各々秘伝をもって奏されます。(秋葉山本宮秋葉神社由緒)
秋葉神社
祭神は火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)、伊邪那岐・伊邪那美 二神の子で火の神様です。
出産時に伊邪那美を火傷で死なせてしまい、怒った父親に産後直ぐに殺されてしまいます。その後、伊邪那岐が黄泉の国へ行くきっかけとなった神様です。
現在山頂にある秋葉神社は、明治6年(1873)神仏分離令の時期に新たに創建されたもので、祭神の火之迦具土大神はその時に京都の愛宕山より勧請されました。まだ百年程度の新しい神社になります。
もともと山頂に建っていたのは秋葉寺で、本社と観音堂や大日如来堂とがあり、僧侶や禰宜、修験者が混在して奉仕していたようです。
古代から信仰の対象であった秋葉山には、和銅2年(709)元明天皇の時代に、山が鳴動し火が燃え上がったため「あなたふと 秋葉の山にまし坐せる この日の本の 火防ぎの神」と御製を賜り、社殿を建立したとあります。(秋葉山本宮秋葉神社由緒)
またその頃の名は「岐陛保神ノ社(キヘノホノカミノヤシロ)」と言われていました。岐陛は秋葉の古語で保神は火の神、つまり火之迦具土神をお祀りしたということです。
秋葉神社 本殿 130坪 総檜造り、流れ造りの本殿と、
間口8間変則7間の入母屋造りの拝殿を幣殿で繋ぐ権現造り。
東照大権現(徳川家康)を祀った東照宮がこの建築法を採用して以来、
近世の神社建築で多く用いられるようになりました。
焼失前の社殿
入母屋造りの拝殿の後ろに、千木と堅魚木を配する切妻屋根の本殿、
その間には簡素な幣殿があるものと思われます。
以前も同じ権現造りだったようです。
神恵岩と末社
金の鳥居と本殿への階段の間にある「神恵岩」 末社の「内宮社・外宮社・祓戸社」
この岩は秋葉山系より産出された大きな火打石で、
手前に設置してある火打ち金でこの岩を叩き、厄除け、清め、防火などの願掛けをします。
復興記念碑と末社7社
末社は手間から「山神社・白山社・風神社・小國社・山姥社・水神社・天神社」
秋葉山は戦時中 昭和18年の大火で山頂一帯を含め参道の茶屋も焼失してしまいます。
秋葉山の裏にあった鉱山(鉱夫の調理中)から出火したそうです。
復興記念碑
秋葉山本宮秋葉神社は、紀元二千六百年(昭和15年 西暦1940年)を奉祝し、御神殿の大造営を斎行せしが、その翌昭和十八年三月十三日、如何なる禍事ならむ磐田郡龍山村雲折の峯(峰)之澤鉱山よりの失火に端を発せし山火事の類焼に遭い、御神殿悉く烏有に帰せり時(とき)あたかも大東和戦争の戦中戦後にして、人員物資共に窮乏甚だしく、直ちに復旧する能はず 止む無く山麓坂下に奉還すされど大神の御神徳は海内に通じ、山上の元の御座所に遷御し奉り、愈々御神威の発揚を仰ぐべしと常に絶へず模索す然る所山麓の市町村の協力を得て秋葉山頂に達する林道が開通し、建築資材の運搬の便開け、昭和五十五年五月二十七日山上の拠点となるべき斎館の新築を見るに至る。これより復興の機運高まり、財界の有志に依り奉賛会が結成され、之に応へて全國津々浦々より協賛の誠が捧げらる。 昭和六十一年十月二十五日御本殿及附属舎の竣工を始め、御末社十一棟、神楽殿及手水舎の新築又参道並鳥居、狛犬、燈籠等が逐次奉納建築され、秋葉山本宮としての威容整ふるに至りぬ。ここに大神の御神威の発揚を冀ひ、以って宝柞長久、天下泰平、国運隆昌、火災鎮護、家内安全を記念して萬代不朽の石碑を策定す。
平成九年十月十日 神社本庁長老 秋葉山本宮秋葉神社宮司 川村豊
西ノ閽の神門
この西ノ閽(こん)の神門は平成17年、鎮座1300年を記念し、
スーパー林道沿い参道に竣工した境内の中でも新しい建物です。
朱雀(南 夏 赤 火)・青龍(東 春 緑 木)
神門四隅には南部白雲作の青龍・玄武・朱雀・白虎の「四神」の彫刻、見応えがあります。
玄武(北 冬 黒 水)・白虎(西 秋 白 金)
四神は中央に麒麟や黄龍を入れ五神とも呼ばれ、
陰陽五行説の五行、「木・火・土・金・水」に照らし合わせた霊獣です。
それぞれに司る方位や季節、象徴する色などがあります。
神社でよく目にする五色布や四神旗も全てこの思想によるものです。
下山はバリエーション、
富士見茶屋跡の少し手間のP534から中電の巡視路へ。
秋葉山とは思えないような絶景のルートです。
富士見茶屋の看板に書いてあった通り、東側はこんな景色が望めたのでしょう。
高瀬古道と四つ辻
左の尾根が高瀬古道、主に地元の高瀬や細木集落の大根講が利用した古道です。
尾根途中の四つ辻で坂下〜久保田集落間の道と交差していました。
奥にはボンジ山(1293.1m)・高塚山(1621.5mm)・岩岳山(1369.6m)などの山々。
城山(553m)の横には富士山も見えています。
栃川へと注ぐ沢沿いの道。
九里橋の袂から続くマルハク林業が整備した山林道(と思われる道)へ
この先、林道は途中崩壊しています。
素敵な池に出てきました。
栃川との合流地点は小さなダムのようになっていて、
水鳥達が住む別天地のような場所でした。
再び九里橋へ戻り終了