東光寺(十九首塚)・静岡県掛川市下俣




東光寺(十九首塚)・静岡県掛川市下俣

静岡県掛川市下俣に境内を構える曹洞宗の寺院「醫王山 東光寺」です。

御本尊は薬師如来

創建は養老年間(720年代)行基菩薩が開基と伝わります。

当寺の本尊薬師如来は将門の念持仏であり、

天慶の乱後(940年)将門等十九人の首級をこの地に葬った時、ここにあった草庵に祀り、

醫王山平将寺を建立(1530年代)その後、曹洞宗に改宗し東光寺と改称されたと伝わります。

東光寺本堂裏の墓地には公園があり、園内に「十九首塚」が祀られています。

また、明治10年には千葉県の成田山新勝寺より勧請し不動堂を建立。

大正14年8月、不動堂を増築した際には成田山 新勝寺より「遠州唯一の遙拝所

として認可され、厄除不動尊としての信仰も集めています。

血洗川

東海道が緩やかにカーブし小川を越えた所に、

秋葉山常夜燈と「東光寺」の山門、立派な松の木があります。

この辺りの地名は「十九首」

何故こんな物騒な地名で呼ばれているかと言うと、

平将門及び家臣十九人の首級の検視がこの地で行われたという伝承があるからです。

この小川も平将門らの首級を洗ったとされ「血洗川」と呼ばれています。

十九首塚史跡公園周辺案内図

秋葉山常夜燈

東光寺の山門、石碑には「成田山遥拝所」の文字

東光寺

東光寺は養老(720年代)行基菩薩が開基。

平将門の乱後(940年)将門等十九人の首級をこの地に葬った時、

ここにあった草庵に祀り平将寺を建立いたしました。

天文(1530年代)永江院四世、雪窓鳳積大和尚により曹洞宗に改宗、

東光寺に改称とあります。

東光寺と成田山の由来

当寺は、掛川市十九首町にある曹洞宗の小本寺であります。起源は、養老(720年代)行基菩薩が開基、真言宗の草庵でした。この寺の本尊薬師如来は将門の念持仏であり、天慶の乱後(940年)将門等十九人の首級をこの地に葬った時、ここにあった草庵に祀り、平将寺を建立いたしました。天文(1530年代)永江院四世、雪窓鳳積大和尚により曹洞宗に改宗、東光寺と改称しました。その後、兵火により焼失いたしておりますが、慶応3年(1867年)玉澗観嶺大和尚一宇を建て、法地と成し、現在に至っております。

成田山 不動明王尊
東光寺本堂の東側に続いて建てられてある御堂です。将門に関係のある十九首町に於いても当山鎮守として不動尊を祀ろうと明治10年千葉県の成田山新勝寺より勧請し不動堂を建立しました。大正14年8月、堂を増築して別格大本山成田山新勝寺より遠州唯一の遙拝所として認可され、毎月28日を縁日と定め厄除不動尊として信仰を集めています。
不動明王は大日如来の化身にて一切の悪魔を隆伏するために忿怒身を現しています。

旧跡 十九首塚

東光寺の裏から墓地を抜けた先に「十九首塚史跡公園」があり、

その奥に平将門の五輪塔を取り囲むようにして、一門18基の首級を祀る首塚があります。

平将門を討った藤原秀郷が首級を携え上京、掛川宿で勅使の検視を受検後、

「逆臣なりとも滅びた後は屍に鞭打つは非礼」と首を埋葬し

懇ろに供養したと伝わるそうです。

長い歴史を持つ十九首塚は、町の守り神として地域や保存会の皆さんにより大切に祀られ、

春秋二季の彼岸と八月十五日の命日には供養祭が行われているそうです。

また、永禄5年(1562年)

井伊谷(浜松市北区引佐町)の領主、井伊直親が駿府に向かう途中、

十九首の地で掛川城主朝比奈泰朝らに討たれたとされています。

十九首塚も実は井伊直親とその家臣を祀る塚ではないかという説もあり、

井伊家ゆかりの方々も参拝に訪れるそうです。

十九首塚の由来

十九首塚の由来

ここは「平将門」の首級を祀る十九首塚 です。
人皇六十一代朱雀天皇の御代、関東下総の国(茨城県)相馬郡猿島に桓武天皇の五代の孫で相馬小太郎将門 という武将がおりました。
承平五年(西暦935年)、一族の内訌を契機として、将門は、常陸を始め関東一円を占拠、自ら新皇と称し律令国家に対抗する国家を企てた。この叛乱に、朝廷から大規模な将門征討が興され、平貞盛、藤原秀郷 らにより、将門は天慶三年(西暦940年)二月十四日滅ぼされました(天慶の乱)。秀郷は将門をはじめ一門の家臣十九人の首級を持って京に上る途中掛川の宿まで来ました。一方、京からは検視の勅使が派遣されこの地(現在の十九首町)の小川(東光寺南血洗川)で首を洗い、橋に架け検視を受けました。
首実検の後、秀郷は『将門は逆臣なりとも、名門の出である。その罪重しといえども、今や滅びて亡し。その死屍に鞭打つは礼に非ず。』と十九の首を別々に埋葬し、懇ろに供養しました。時は天慶三年八月十五日でありました。
この後、歳月の流れと土地開発等の為、移動し現在に移りました。ここ十九首塚 には、葬られた十九人の詳細な名前が残されています。地名の由来も十九の首塚があったところから十九首町と呼ぶようになりました。
町民は、首塚を町の守り神として春秋二季の彼岸と八月十五日の命日には供養祭を行い、今日まで続いております。

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