曹洞宗大本山 吉祥山 永平寺(えいへいじ)・福井県吉田郡永平寺町志比




曹洞宗大本山 吉祥山 永平寺(えいへいじ)・福井県吉田郡永平寺町志比

大本山永平寺H.P

山門(さんもん)

山門(さんもん)

七堂伽藍の中で最も古い寛延二年(一七四九)の造立です。総欅造の宋風の楼門で楼閣門で、両側に仏教の守護神である四天王が安置されています。また、山門楼上の羅漢堂には五百羅漢などが祀られており、毎日、修行僧が楼上に登り、お経をあげています。

多聞天 持国天(東)

増長天 広目天 (西)

山門(さんもん)

修行僧が正式に入門、安居(あんご・集団で寺域から出ずに修行)する永平寺の玄関である。寺院の諸堂塔のことを一般に伽藍と呼ぶが、これには僧侶が修行をする清浄な場所という意味がある。これら伽藍の中でも特に重要な建物が山門,仏殿,僧堂庫院·東司·浴室·法堂の七棟で、これを七堂伽藍と呼んでいる。また、この七つの建物の配置を伽藍配置という。配置は人体のありようになぞらえられている。すなわち法堂は頭部仏殿は心臓、山門は腰であり、庫院が左手、僧堂が右手、浴室が左足、東司が右足という見立てである。永平寺の伽藍は長い歴史の中で何度も火災に見舞われた。寛元二年(一二四四)に、大仏寺として創建された永平寺だが、再建をくり返した中でもっとも古い伽藍が山門である。

山門は寛延二年(一七四九)、四十二世円月江寂禅師によって再建された。総欅造の宋風様式で、間口三間奥行二間の重層の大楼門。門を支えるのは巨大な十八本の円柱である。山門の両脇には文政三年(一八二〇)、五十四世博容卍海(まんかい)禅師墨蹟の聯(れん)がある。家庭厳峻不容陸老従真門入鎖鑰放閑遮莫善財進一步来読み下し文は「家庭厳峻(かていげんしゅく)、陸老(りくろう)の真門(しんもん)より入るを容(ゆる)さず。鎖鑰放閑(さやくほうかん)、遮莫善財(さもあらばあれぜんざいの一歩を進め来るに」である。永平寺の家風は厳しく、たとえ権力があり、地位や名誉に恵まれていても求道心がなければこの門から入ることはできない。しかし永平寺の門はいつも開かれており、真に仏道を求める人はいつでも出入りが可能だ、の意。毎年、春·秋の入山前日に地蔵院で身なりを整え、永平寺で修行を志す雲水たちがまず立つのがこの山門前である。山門は俗世間と仏道に帰依する修行の聖地を分ける関門なのだ。厳しい修行に耐えられるだろうか、雲水たちは幾多の逡巡と訣別し、意を決して山門の脇に吊るされた木版(もっぱん)という板を力強く叩く。だが出迎えの古参雲水が出てくるまでの時間は長い。ひたすら取次を待つ入門者はここでも修行の決意を試されるのである。門を入って仰ぎ見ると正面に「吉祥の額」といわれる扁額が掛けられている。道元は傘松峰大仏寺から傘松峰永平寺に寺名を,改め、さらに山号を吉祥山と改めたとされる。諸仏おわしますまことにめでたい山であると感得した法語の扁額である。

諸仏如来大功徳諸吉祥中最無上諸仏倶来入此処是故此地最吉祥

読み下し文は「諸仏如来、大功徳 諸吉祥 中最無上諸仏俱に来って此の処に入る

是此の故に此の地最吉祥山門の東側を持国天と多聞天、西側を広目天と増長天の四天王が守りにあたっている。楼上には華厳の釈迦如来、脇侍として迦葉尊者、阿難尊者,善財童子、月蓋長者(がっかいちょうじゃ)が祀られる。ほかに十六羅漢、五百羅漢が鎮座している。なお正門から山門にいたる参道の両脇見事な杉の巨木が固めている。この杉並木を五代杉というが、五世義雲禅師が植えたことにちなむ命名である。山門は修行僧にとって寺の正式玄関で、入門のときと、修行を終えて下山するときの生涯に二度だけ通る門。入山する修行僧たちは壁のように立ちふさがる山門を一途に目指す。

中雀門(ちゅう じゃくもん)

中雀門(ちゅう じゃくもん)

山門と仏殿の中間にある門。宮中の朱雀門に由来するわれるが、仏殿に向かう特別な門と考えられる。縦(南北)の位置では山門と仏殿の間の斜面に立ち、横(東西)では大庫院と僧堂の中間にある美しい重層造の四脚門である。中雀門の典拠は詳らかでないが、仏殿に対する特別の門という意味からという。宮中の朱雀門にならってこう呼んだともいわれる。現在の中雀門は六十世臥雲童龍禅師の代、嘉永五年(一八五二)の「道元禅師六百回忌」に新築された。かつての門は「教体楼(きょうたいろう)」と称して二重層で梵鐘が吊られていたという。山門から仰ぐ中雀門は気品のある重厚な建物で、楣間には朱縁の額が掲げられており、草書で「梅熟」という二字を納めている。揮毫は先の臥雲童龍禅師によるもの。典拠は中国の大梅法常禅師の「即心是仏」の話に出てくる故事からといわれ,意味は、大自然とひとつになって修行すれば結果自然成となる、である。また、仏殿に向かった二本の柱に五十世玄透即中禅師の筆で毘盧楼閣門戸不辰通方作家単刀直入の聯が掛けられており、昭和五十五年( 一九八○)に福井県の文化財に指定された。読み下し文は「毘盧の楼閣門戸とださず、通方の作家(さっけ)、単刀直入」である。中雀門の下には池があり、そこに架かる橋を六十三世滝谷琢宗禅師は老梅橋と名付けた。道元は梅花を好んだというが、老梅橋の命名はそれにちなんでという。修行僧たちは中雀門を通るとき,必ず仏殿に向かって拝礼するのである。

僧堂

僧堂(そうどう)

明治三五年(一九〇二)の改築。

正面には「雲堂」の額が掛けられており堂内中央には智慧の象徴である

文殊菩薩が安置されている。

そして文殊菩薩を囲むように、坐禅の出来る「単」と呼ばれる席が約九〇人分設けられている。

修行の根本となる伽藍で坐禅·食事·就寝などを行なう。
僧堂は別名を雲堂とか選仏場と呼ばれる。裡宗寺院 における修行の根本道場である。

伽藍配置では庫院に対応して建てられ、人体に例えると右手部分にあたる。

堂の中央に聖僧として文殊菩薩を安置することから聖僧堂とも呼ばれ、
これが本来の名称であったという。

聖僧を囲んで「単」と呼ばれる畳床が設けられ、修行僧はこの単で坐禅・打眠・三時(三回)の食事をする。
「立って半畳、寝て一畳」という言葉があるが、文字通り一人につき畳一枚分の単が、坐り・食し・眠る修行の場なのである。
単の周りに巡らされた幅二十五センチほどの木縁を牀縁(じょうえん)と呼ぶ。ここに袈裟や食器である応量器を置き、また就寝の際に頭を向けるため、ことに「三浄」といって清浄に保たなければならない部分である。
したがって単に上がる際、牀縁に足をかけることなどもってのほか、座り込んで上がる場合にも尻や不浄の指(薬指と小指が触れないように注意しなければならないのである。

永平寺の僧堂は間口十四間、奥行一0間で、明治三十五年(一九〇二)に改築された。

永平寺67世元峰禅師の筆になる「法喜禅悦」という額が掲げられている。中には、足の速いことで有名な守護神「韋駄尊天」が祀られ、この裏の典座寮と呼ばれる台所で一山大衆の弁食を作っている。

白山水(はくさんすい)

白山水(はくさんすい)

白山連峰に連なる永平寺は、加賀の白山から湧き出る白山水の豊かな恵みを受けている。道元の霊廟である承陽殿に隣接して白山水を引いた堂宇がある。毎朝、その白山水が係の僧によって霊廟に供えられる。堂宇へは係の僧しか入ることはできない

承陽殿 (じょうようでん)

承陽殿 (じょうようでん)

承陽殿(道元禅師の御真廟)明治14年の改築.で正面壇上奥には御開山道元禅師(承陽大師)、本山第2世懷弉禅師の御尊像と御霊骨が奉安され、さらに本山3世、4世、5世、並びに瑩山禅師の御尊像をお祀りしている。殿内には本山歴代禅師、及び宗門寺院住職の御位牌.が祠られている。又、正面左には本山開基波多野義重公の像を安置する。正面上『承陽』の額は、明治天皇より道元禅師へおくられたものである。正面の階段を登った所に本殿があります。「承陽」には仏法を承け伝えるという意味があり日本曹洞宗の発祥の根源として曹洞宗の聖地とでも言うべき場所です。

久我龍胆の紋(がりんどう)

久我龍胆の紋(がりんどう)

承陽殿正面の扉をはじめ、水盤、長押の釘隠し、屋根瓦などにあしらわれた紋が「久我龍胆の紋」。これは道元の生家、久我家の家紋である。永平寺で久我龍胆が盛んに用いられ始めたのは明治八年(一八七五)、六十一世環渓密雲禅師が久我建通の養子となって、姓を久我に改めてからといわれ、それほど古いことではない。最初に用いられたのは明治十四年(一八八一)九月のことで、再建された承陽殿に付けられたという。

報恩塔(納経塔)

報恩塔(納経塔)

祠堂殿の前に建つ六角形の納経塔で七十八世宮崎奕保禅師の発願により、平成八年(一九九六)十一月に落慶した。平成十四年(二00二)に「道元禅師七百五十回忌」が催されたが、それを目指して宮崎奕保禅師は永平寺住職として自身はもとより全国の檀信徒の協力を仰ぎ「般若心経」百万巻を写経奉納することを発願した。こうして進められた写経を納める塔がこの納経塔である。塔は百万巻の経を納められるよう、二千枚入りの納経箱を五百個収納できる容量をもっている。塔は名古屋の中部大学名誉教授で工学博士の伊藤平左門(堂宮大工十二世)の設計で、永平寺大工が永平寺の老杉を使用。六角形、一重裳階の塔として建立された。心柱は相輪頂部まで四十七尺二寸六分(約十五·五メートル)といわれる。

一葉観音

一葉観音

一般観覧者が入る通用門の右手にある放生池には、昭和四十七年(一九七二)に開眼供養が行われた一葉観音が祀られている。道元は宋より帰朝の際、海が荒れ船中で苦しんでいた。そのとき「観音経普門品偈(ふもんぼんげ)」を唱えると木の葉に乗った観世音菩薩が現れ、波が治まったという。その由縁による観音像である。かっては愛宕公園に置かれていた。

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