山辺の道(北コース)・天理〜奈良




山辺の道(北コース)・天理〜奈良

山辺の道(北コース)を歩いて来ました。

山辺の道山邊道)は、奈良盆地の東南にある三輪山の麓から東北部の春日山の麓まで、

盆地の東縁、春日断層崖下を山々の裾を縫うように南北に走る古道で、

日本最古の道日本現存最古の道として知られています。

以前歩いた山辺の道、天理〜桜井(南コース)は見所が多く人気のルートですが、

こちらの北コースは今一つ人気がないようです。

せっかくなので、全ルートを踏破してみたく、中間地点の石上神宮から春日大社までを歩き、

ついでに前日の続き、天皇陵も巡って来ました。

山の辺の道・天理~奈良

難易度 ★    オススメ ★★★ 登山口(ナビ検索) 石上神宮
スタート地点(5:17)→石上神宮(5:21)→ハタノの滝(5:31)→白川ダム(6:19)→延命地蔵尊(6:57)→中澤忠七翁壽碑(7:13)→崇道天皇陵 遥拝所(7:31)→春日大社(8:46)→奈良国立博物館(9:04)→聖武天皇陵 遥拝所(9:22)→元明天皇陵 遥拝所(9:46)→元正天皇陵 遥拝所(9:52)→近鉄奈良駅(10:25)→ゴール地点(10:53) 所要時間 14時間12分 累積標高 500m / 526m 距離 26.3m
■山辺の道(やまのべのみち、古代読み:やまのへのみち、古風な表記山辺道旧字表記山邊道)は、日本古道の代表的な一つ。大和の古道の一つ。古代大和の山辺(やまのへ山辺郡の語源にあたる地域名)に通したである。日本史上記録上)最古の道日本現存最古の道として知られる。奈良盆地の東南にある三輪山の麓から東北部の春日山の麓まで、盆地の東縁、春日断層崖下を山々の裾を縫うように南北に走る。
■石上神宮から影媛ゆかりの布留の高橋をわたり、青垣の山裾をたどって北へ向かうコースです。影媛伝説のあとを追いながら弘仁寺・正暦寺・円照寺など、山あいに隠れるように点在する清らかな寺々が点在します。
天理から奈良へと続く山の辺の道(北)コースは、天理~桜井間の(南)コースにくらべて知名度も低く、訪れる人も少ないのですが、それだけにのどかな景観と俗化されていない、魅力的な史跡が残されているコースといえます。

石上神宮

石上神宮 楼門

ヤマト王権時代の豪族「物部氏」の氏神であり、武器庫としての役割も持っていた石上神宮

ここが南北コースの中間にあたります。

国宝 石上神宮 拝殿

剣に纏わる神社「石上神宮」のご祭神は三神です。

主祭神は、武甕雷神が持つ神剣「韴霊(ふつのみたま)」に宿る

「布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)」

配神は、須佐之男命がヤマタノオロチを退治したと伝わる霊剣「天十握剣」に宿る

「布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)」と、

物部氏の遠祖であるニギハヤヒのミコトが天から降りてくる時に授けられたという

「十種の神宝」からなる「布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ) 」です。

また神功皇后が百済王から献上された剣「七支刀」も御神体同様に祀られています。

山辺の道は石上神宮境内を通ります。

楼門の前を抜け、一路 奈良に向かいます。

布留の高橋から望む「ハタの滝」

ハタの滝は石上神宮の祓戸でした。

同じく布留川の上流にある布留の滝(桃尾の滝)と同じく、

石上神宮にとって神聖な場所とされています。

また「布留の高橋」には影媛の伝説悲話が語り継がれています。

影媛伝説

5世紀末、ひとりの美女をめぐってふたりの男が争った悲劇について「日本書紀」は伝えています。

美女の名は豪族物部(もののべ)氏の娘、影媛(かげひめ)。争った男はときの皇太子(のちの武烈天皇)と、朝廷の権力者だった平群真鳥臣(へぐりのまとりのおみ)の子鮪(しび)。

海柘榴市(つばいち)の歌垣で、すでに影媛の心が鮪ものであり叶わぬ恋と知った皇太子は、鮪を平城山に追いつめて殺し、さらに父の真鳥をも攻め滅ぼしてしまいました。
恋人の身を案じて山の辺の道を北へ追った影媛がそこで見たものは、愛する男の無惨な死でした。

泣きながら影媛は歌います。

-石(いそ)の上(かみ) 布留(ふる)を過ぎて 薦枕(こもまくら) 高橋(たかはし)過ぎ 物多(ものさは)に 大宅(おおやけ)過ぎ 春日(はるひ) 春日(かすが)を過ぎ 妻隠(つまごも)る 小佐保(をさほ)を 過ぎ玉笥(たまけ)には 飯(いひ)さへ盛り 玉盟(たまもひ)に 水さへ盛り 泣き沽(そぼ)ち 行くも影媛あはれ-

海柘榴市(つばいち)から布留(ふる)、大宅(おおやけ)、春日(かすが)から平城山(ならやま)へ。

この影媛がたどった道こそ、古代の山の辺の道だったと言われています。

豊田神社

貞観五年(868)に記述がある古社 元は天満宮だったそうです。

金剛山地

二上山から金剛山までを望む

古墳時代の奈良盆地は沼地や湿地が多かったようです。

山の辺の道はこれを避けて、山林・集落・田畑の間を縫うように

山裾に沿ってつくられたため、曲がりくねった道となっているそうです。

序盤は雰囲気の良い道が続きます。

狂心の渠(たぶれごころのみぞ)と天理砂岩

「狂心の渠」は女帝 斉明天皇が造った壮大な運河の跡のことです。

山から切り出された石(天理砂岩)を運ぶために

3万人もの人夫を使って運河を造営したことを当時の人はこう揶揄しました。

石上大塚古墳

竹林の中にある古墳

よく見ると前方後円墳の形状がわかります

白川ダム

白川ダムは高瀬川の支流・楢川にあった農業用ため池を改築してつくられた治水ダム。

周辺は公園になっていて、ダム湖周辺に整備された散策路を散歩している人も見られます。

また、ヘラブナ釣りのポイント(有料)で、多くの釣り人達で賑わっていました。

背後には以前登った大国見山(492m)が見えます。

山辺の道は東海自然歩道と重複する区間が多いです。

道中には万葉歌碑も設置されています。

また、特に北ルートにはトイレが少ないので、事前にすませておくことをお勧めします。

この先に数少ない公衆トイレがあります。

トイレ分岐からは弘仁寺の参道となります

弘仁寺

弘仁5年(814)に嵯峨天皇の勅願で弘法大師が創建したと伝わる高野山真言宗の寺院です。

御本尊は木造虚空蔵菩薩、ここの集落名も虚空蔵町といいます。

山辺の道は弘仁寺境内を通ります。

入山料¥200-は山門中央にある箱に支払うシステム。

弘仁寺 奥の院 閼伽井戸

奥の院の閼伽井戸は、弘法大師が三鈷杵で掘られたと伝わる場所。

参道を抜けて、再び一般道に合流します。

ここからしばらくは一般道路沿いを歩きます。

見える景色も生駒山地に変わりました。

円照寺が近づくと雰囲気の良い道に変わります。

大師堂 西国三十三箇所霊場

この先、円照寺の参道へと出ます。

円照寺は門跡寺院といって、皇族貴族が住職を務める格式の高い寺院です。

また華道の「山村御流」の家元でもある尼寺です。残念ながら一般公開はしていません。

山の辺の道は参道を横切ります。

素敵な竹林を通り住宅地へ。

ため池の前には獣避けの防護柵。

同様の柵はこの後も何ヶ所かあります

祟道天皇(早良親王)陵・八島陵(やしまのみささぎ)

祟道天皇は天皇と呼ばれているものの、

実際に皇位継承をしていないため歴代天皇には数えられていません。

皇太子の時に、奈良から京都へと遷都した藤原種継の暗殺事件に加担したとされ、

淡路に配流されてしまいます。 その間に無実を訴え絶食し亡くなります。

皇太子の死後、疫病が起こったり不運なことが相次いだため天皇の号が送られました。

嶋田神社

御祭神は神八井耳命(神武天皇の皇子)・崇道天皇(早良親王)

祟道天皇(早良親王)陵が整備されるまで

八島陵の中心部に祀られていた「崇道天皇社」と合祀されました。

本殿は幕末まで式年造替を行っていた春日大社の本殿を移築したものです。

「白山比咩神社」創建 由緒は不明

周辺には廃寺や城跡などもあります。

素敵な水田の中を通り抜けます。

新薬師寺

9時に開門(拝観料¥600-) とのことで、迷いましたが先に進みます。

不空院

真言律宗の寺院「不空院」

こちらも9時の開門(拝観料¥600-) 不空院の先、春日大社の境内へ

春日大社

官幣大社、二十二社(上七社)とされる旧社格 最上位の神社です。

全国の春日神社の総本社で、中臣氏・藤原氏の氏神を祀ります。

主祭神 は、「武甕槌命 (第一殿)」 「経津主命 (第二殿)」

「天児屋根命 (第三殿)」、藤原氏の祖神「比売神 (第四殿) 天児屋根命の妻」の4柱、

総称して春日神と呼ばれます。

奈良時代の初め、平城京の鎮護のために鹿島神宮より武甕槌命(たけみかづちのみこと)を

御蓋山の山頂に勧請し祀ったのが起源とされています。

神護景雲2年(768年)に、称徳天皇の勅命により現在の場所に社殿を造営、

香取神宮より経津主命(ふつぬしのみこと)、大阪府枚岡から

天児屋根命(あめのこやねのみこと)と、比売神(ひめがみ)を勧請し合祀しました。

主祭神の武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とします。

そのため奈良では古くから鹿が手厚く保護されてきました。

山の辺の道(北ルート)はここで終了、この後は天皇陵などを観光して帰りました。

氷室神社

奈良時代、平城遷都にともなって春日野に氷池や氷室が造られるようになりました。

その守護神を祀り、稲作に重要な夏の天候を占う祭紀を行ったのが始まりとされています。

聖武天皇陵

奈良県奈良市法蓮町、第45代 聖武天皇(しょうむてんのう)

佐保山南陵(さほやまのみなみのみささぎ)と、皇后 光明皇后 (天平応真仁正皇太后)」

佐保山東陵(さほやまのひがしのみささぎ)・遺跡名「法蓮北畑古墳」

聖武天皇は奈良時代の天皇です。(在位 724年~749年)

仏教を深く信仰し、諸国に国分寺・国分尼寺を建立し、東大寺の大仏造立を進めました。

在位中は、蝦夷の乱・長屋王の変など、政情・世情が不安定な中、

「恭仁京」・「紫香楽宮」・「難波京」と、たびたび都を遷都しました。

死後、聖武天皇の遺品は光明皇后によって東大寺に献納され、

正倉院宝物の母体となっている事でも知られています。

元明天皇陵

続いて、第43代 元明天皇陵(げんめいてんのう)へ

奈保山東陵(なほやまのひがしのみささぎ)、宮内庁上の形式は「山形」(円墳)

元明天皇は、661年に即位した女帝で、

672年に平城京への遷都を行った奈良時代最初の天皇(女帝)です。

また、仏教を広めるために多くの寺院を建立したことでも知られています。

元正天皇陵

第44代 元正天皇陵(げんしょうてんのう)

奈保山西陵(なほやまのにしのみささぎ)、宮内庁上の形式は「山形」(円墳状)

母親である、元明天皇 陵(奈保山東陵)と同じ丘陵上に立地していますが、

現在は丘陵の真ん中を通る道路によって分断されています。

元明天皇陵が江戸時代、現在地に治定された後に、この地が元正天皇陵とされ、

幕末に修陵されました。

平城遷都した奈良時代最初の天皇、元明天皇の娘で(女系での譲位はこの時のみ)

日本の女帝としては5人目、生涯独身でした。

715年に即位し、724年に皇太子(聖武天皇)に譲位。

在位中、養老4年(720年)には「日本書紀」が完成しています。

開花天皇陵

最後に市街地まで戻り、第9代 開花天皇陵(かいかてんのう)へ。

春日率川坂上陵(かすがのいざかわのさかのえのみささぎ)・遺跡名「念仏寺山古墳」

墳丘長約100メートルの前方後円墳です。

「日本書紀」・「古事記」ともに系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられます。

奈良駅

奈良駅〜天理駅 JR万葉まほろば線(¥210-)

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