身延山 久遠寺 日蓮聖人 御廟所・御草庵跡
身延山久遠寺H.P
http://www.kuonji.jp
妙石坊(高座石)から少し降った所、
七面山の登山口に日蓮聖人が9年間生活された御草庵跡
すぐ隣には御廟所があります。
ここは聖域として久遠寺歴代法主の墓所や
熱心な身延山信徒の供養塔があります。
竜潜橋
参道の入口の樋の沢川に架けられた橋です。
その昔、この辺りは鬱そうとした杉木立に覆われて、
橋下には竜が潜むようなおもむきがあったのでこの名がつけられたといいます。
参拝はこの橋を渡ることから始まります。
常唱殿横からの入口近くに駐車場もあり
そこからの参拝者が多いですが、
竜潜橋からまっすぐ伸びるこの道が祖廟参拝の正参道です。
常唱殿
常唱殿(じょうしょうでん)
御廟法務所で、御廟所域に関する法務と作務を司っています。
昭和33年に建立され、常唱殿(当初は常経殿といっていた)の中心は、
祖廟塔に向かって寸分も横にずれていないことが
建立の条件とされていたそうです。正面を透かしガラス張りにした殿堂で、祖廟塔に正対しています。
あくまでも祖廟を拝礼するための建物です。
はじめ常経殿をなのりましたが、一時、常唱殿を称したこともありましたので、
向後の混乱を避けて、平成12年5月1日より正式に常唱殿をなのっています。
常に参拝者の祖廟拝礼の唱題が盛んにおこなわれるよう、願ってのことであります。
霊山橋
祖廟ならびに御草庵跡などに参拝するために架けられた石橋で、
渡る川が、聖入の消息にもしばしば登場する身延川です。
霊山とは、お釈迦さまが法華経をお説きになっている
法華経の霊山浄土のことです。
聖人は「かの月氏の霊鷲山は本朝この身延の嶺なり」
あるいは「仏菩薩の住みたもう功徳聚の砌なり」などと仰せになり、
ここに霊山浄土を感得されました。
その霊山浄土感得の霊域へもうでるための橋ですからこの名があります。
水屋
参詣者の清め、手水のために設けられたもので、
屋内に自然石を繰り抜いた水盤をおき、
そこへ身延川の清水を導いています。
身延川域の手付かずの自然と、
手入れの行き届いた御廟所域内の調和が素晴らしい。
雫の桜
身延山に隣接する下山郷に住んでいた因幡房は、
噂に聞いた聖人の教えをひそかに聞きたいものと、
夜毎に御草庵をうかがい、かたわらの桜の木の陰に身を潜めては、
戸外に漏れる聖人の説法聴聞につとめ、
その尊さに信伏して聖人の弟子となることを許されました。
聞法のために、時に夜の更けるを忘れた因幡房の衣は、
その桜に宿った雫で、しとどに濡れたところから、
その桜は雫の桜と呼ばれるようになり、代を重ねた桜が今に伝わっています。
聖人の弟子となった因幡房は、念仏を堅く信ずる父・下山五郎光基の
嫌忌をうけたものの、聖人のねんごろな導きをうけて事なきを得、
父もやがて聖人の教えに帰伏したのであります。
聖人のあつい教化も偲ばれます。
法界堂
聖人の御草庵のおもむきを今に伝えるために、
その形を模写・縮小しながら建造したもので、
聖人ご在山のご生活を偲ぶよすがとしています。
祖廟拝殿
祖廟拝殿
祖廟を拝礼するための建物で、千鳥破風、
御所向拝丸太建築桧皮葺きの造作です。
殿内の頭上中央に掲げる「立正」の大額は昭和天皇より賜った勅額で、
大正天皇から聖人に賜った「立正大師」の贈り名にちなんだものです。
なお、拝殿の下、階段の昇り口中央には一本灯籠
(正面の「大光普照」は法華経の経文)があります。
祖廟塔
祖廟塔
拝殿の正面に厳然と聳立するのが、
聖人の「墓をば身延」にというご遺命にしたがって立てられた御墓であります。
聖人の御墓は、祖師の御廟ですから祖廟、あるいはたんに御廟と呼び、
これに架けられた塔を祖廟塔、御廟塔といいます。
この塔中にこそ、聖人の御舎利を安んじた
創建当初の五輪塔の御墓がましましているのであります。
五輪塔に刻まれた「妙法蓮華経」の5字は、
聖人の本弟子・日昭上人あるいは日向上人の筆であると伝えられています。
御草庵跡
御草庵跡
石造の玉垣に囲まれた正方形の地面こそ、
聖人9か年ご生活の御草庵跡(写真上)であります。
聖人はここで、法華経の読誦と弟子・信徒教育のための法門の談義、
さらには多くの曼荼羅本尊や、厖大な著述・消息の執筆などに明け暮れました。
聖人滅後、時代とともに発展を遂げた身延山久遠寺は、
室町時代、身延山第11世日朝上人の時、将来のさらなる発展をおもんぱかって、
もはや狭隘となったここより現在地へ移転をしましたが、
聖人ご生活の御草庵跡、霊山浄土感得の霊域、
身延山久遠寺発祥の聖地なればこそ、格護と守衛が続けられているのであります。
かたわらには、身延山第78世日良上人によって識された
「御草庵旧跡修理の記」の碑石も立っています。
歴代墓所
歴代墓所
祖廟に向かって右側の奥にあり、
第二祖・佐渡阿闍梨日向上人以来の身延山久遠寺歴代上人の墓があります。
聖人滅後、祖廟格護の身延山は、聖人の本弟子6人(六老僧)を中心とする
月交代の輪番制によって守られてきましたが、
聖人7回忌を機に住職制が敷かれることとなり、
本弟子の一人である日向上人が選ばれ住職となりました。
以来、聖人を開山に仰いで日向上人二祖となり、
これより世代は連綿と継承されて現代に至っています。
篤信廟
篤信廟
直弟子直檀廟の左側一帯にあり、篤信丹精者の供養墓碑が並んでいます。
徳川家康の側室で、篤信のほまれたかい養珠院、
黄門の名で親しまれる水戸徳川光圀の母・久昌院、
丹後宮津京極高国の母・寿光院、会津の保科正之の母・浄光院、
加賀前田利家の室・寿福院、刈谷三浦共次の母・寿応院などで、
その大きな墓碑に、権勢と身延山への丹精のほどが偲ばれます。
直弟子直檀廟
直弟子直檀廟
祖廟に向かって左側の奥にあり、白蓮阿闍梨日興上人、
南部(波木井)実長公、阿仏坊日得上人、
富木常忍公の母・常日尼の4人の納骨塔・供養塔があります。
直弟子とは、聖人より直接おしえをうけた弟子のこと、
直檀とは、おなじく直に教化をこうむった檀越すなわち信徒のことです。
白蓮阿闍梨日興上人は、佐渡阿闍梨日向上人とおなじく
聖人の本弟子6人の一人に選ばれた高弟で、
地元の甲斐・駿河に生まれ育った地縁もあって、
よく輪番に努めて祖廟格護の身延山の護持にあたりました。
南部公は、聖人を身延山に招いて支援につとめ、
後には身延全山を寄進して久遠寺発展の基を開きましたので、
身延山開基大檀那として敬待しております。
富木公は、聖人の最も信頼する信徒中の最重鎮であります。
亡き母の遺骨を首にかけて下総の国若宮(千葉県市川市中山)の自邸より
身延山に登り、聖人の回向を受けるべく、遺骨をここに葬りました。
これが身延山納骨の始まりであります。
阿仏坊は佐渡のひと。流罪に処せられた聖人の教化にあずかって改信し、
以来、聖人の流人生活の不如意を助け、聖人が身延に入ると、
海山川の遠路をいとわず、老躯をおして3度も聖人を訪れたほどの
純情一徹な篤信者で、3度目の登山はなんと90歳であったといわれています。
没後、その遺骨は息子・藤九郎守綱の首にかけられて身延山に登り、
その願いのごとく、恋い焦がれた聖人のお側に、
とこしえに眠ることになりました。