岩室廃寺跡(いわむろはいじあと)岩室山 清瀧寺 観音堂・遠江三十三観音霊場




岩室廃寺跡(いわむろはいじあと)岩室山 清瀧寺 観音堂・遠江三十三観音霊場

磐田市観光協会 / 獅子ヶ鼻公園
http://kanko-iwata.jp/tanoshimu/tanoshimu-427/

静岡県磐田市大平にある獅子が鼻(260m)へ

現在、獅子ヶ鼻公園として整備されているこの地は

山岳修験道場であった岩室廃寺の遺構が公園内に数多く残っています。

創建や寺史に関しては明らかになっていないことが多いようですが、

遠江国分尼寺跡とも言われてる大寺院が一帯に広がっていました。

岩室山 清瀧寺

遠江三十三観音霊場 九番礼所

宗派
真言宗
ご本尊
聖観世音菩薩(木造・立像・105cm・平安後期の作)
創建
平安期
開基
伝・弘法大師
所在地
静岡県磐田市岩室227
TEL
0539-62-3723(管理者 磐田市岩室115-1 佐野邦雄)
開帳
毎年二月初午に例祭開帳

御詠歌
「岩室いわむろのこけの細道踏み分けて 参る心は浄土なるらん」

清瀧寺 縁起
平安時代、空海により真言密教が伝えられると、
全国各地に山岳寺院が造営されることとなった。
その時代に、この地岩室に大寺院が造られたと考えられ ている。
それは、この観音堂を中心に大礎石が並ぶお堂や石段があり、
また布目瓦や土器などが多数出土、
さらに北谷土中より大日如来頭部(約120cm)と仏 像二体(立像150cm)が発掘されている
ことなどからも明らかだ(これらは豊岡 村の指定文化財となっている)。
しかし、戦国時代の織田信長によって、
この寺院は観音堂を残して村落もろとも焼き尽くされたという。
またこの岩室一帯には、当時を物語る地名や墓石銘なども残されている他、
弘法大師に関する伝説もいくつかある。
遠江三十三観音霊場 H.P

遠江三十三観音霊場 H.P
http://33kannon.com/map/

唯一、残っている観音堂は現在「岩室山 清瀧寺」として

遠江三十三観音霊場の九番礼所に数えられています。

市指定史跡 岩室廃寺跡(観音堂)

岩室廃寺跡は、敷地川の東西の急峻な丘陵上(標高150~180前後)に築かれています。
東岸の現在の観音堂周辺には、建物基壇が2箇所、
礎石建物1棟、塔礎石1箇所、西側には塔礎石が2箇所(口灯明台、奥灯明台)
確認されています。
また、現在の観音堂北側には中世墓が築かれており、ここからは大治元(1126)
年銘の銅製経筒(個人蔵)が出土しています(「石巌寺」の刻字)。
昭和61(1986)年の発掘調査では、遠江国分寺瓦が出土し、
遠江国分寺や遠江国府との関連を考える上で重要な遺跡となっています。

平成18年2月1日 磐田市教育委員会文化課

岩室遺跡

この台地一体には平安時代の遺跡が多い
当時の地形を推定し天竜川渡過最北地丘として
重要な土地であったと思われる。
したがって京都文化が他地よりも早く移って来たのであろう
堂塔の跡仏像地名土器、弘法大師伝説等、
当時を偲ぶものが数多い。

岩室遺跡

一、佛像
この観音堂に安置されている仏像は土中から掘り出されたものと云う
縦三尺七守幅二尺三寸の頭部だけのもの→木彫
全長四尺二寸のもの→木彫
共に平安朝藤原時代もので一木彫刻の特徴が判然としている。
遠州風土記に
岩室観音堂に大日如来の木像を安置す古老曰く
堂の髄近は昔、真言宗祖弘法大師開山の地にして
当時は七堂伽藍をはじめ数多くの坊舎を設け捨も紀伊の高野山に異らすして
其の名も高野と称せしとか故に今も本宮山の絶頂より謂々として
湧出ずる泉即ち敷地川の水源を称して高野水吸と呼べり然るに
戦国の時に及び織田信長の政むろ所となり堂宇伽藍彜く兵火に羅り
延焼数日敷地村金部を鳥有帰し旧記はすべて消失せりと、
今観音堂に安置する木像破陀は戦後年を経て村人の渓谷域は
土中より発見せしものなり木像は被る大にして
胸周り凡一丈余頭腕之に適へる。
温顔柔和なる形様は藤原時代の彫刻を如実にあらわしていて比類も少ない。

岩室遺跡

二、堂塔跡
この礎石は五間四面のお堂のものである。
八尺の間隔をおいて東西に六個、南北に五個の割で
直径三尺の大石がならび中央二箇所をあけて二十八個
(内三個抜かれている)が整然と埋まっている観音堂の前に
石創の礎石公園道、途中塔心の礎石、変形唐草文の
S字逹鎖の紋様入、軒瓦、目瓦、土師貧土器他
これら数々の出土品から推して
平安時代の豪壮た寺院の跡と認められている。

敷地 岩室遺跡について

ここ豊岡村岩室は古くから仏教を通じて大変栄えた所でありました。
現在、案内板の立っている土地はビクニ(比丘尼)とは尼僧さんの事であります。
又 先頃出土しました多数の布目瓦、土器片、等から、
遠江 国分寺の尼寺の跡と思われます。
又 磐田市中央町の国分寺(僧寺)の古文書には「これより北方三里に尼寺あり」
としるされております。
七堂伽藍のあった礎石も立派に現存しております。
その後、岩室山は遠江国の守護所として、政治、宗教、文化の中心地であった
記録もございます。
西暦一二七三年文永一○年三月十二日、遠江国分寺護所岩室南谷にて
大般若経を書き写す(執筆 覚光房有俊)京都綾部市東光院及び興隆寺所蔵の
大般若経の奥書にしたためられて居ます。(静岡県史より)
尚、一二七八年 弘安元年岩室西谷寂仙坊にて大般若経を千代若丸が書き写し、
清水市久能寺に所蔵されています。
その後一五四六年(天文一五年)比叡山と岩室山が本末の論議で争い
岩室山は比叡山から来襲した多数の僧徒により焼き打ちされ、
岩室山に属していた正僧寺(袋井市山梨)も類焼の難を蒙ったと記録されております。
その時難を逃れる為、仏像を北谷の土中に埋められ約二百年の歳月後
一七六五(明治二年)仏像を掘出し安置し祭祀したのです。
その仏像がこの中に祀られております。
それからは遠江三十三ヶ所観音霊場の礼所として、あるいは初午等が盛大に行われて
信仰の的としてあがめられる様になりました。
この御仏様は霊験あらたかで、第二次大戦中には大勢の出征兵を送り出しましたが、
一人の犠牲者もなく全員帰還出来た等、延命観音としても素晴らしい御仏であります。
豊岡村観光協会


岩室廃寺跡(塔跡)

公園内の各所に遺構が見られるが、

その距離からも大寺院であったことが伺えます。


岩室廃寺跡(金堂跡)

岩室廃寺跡(金堂跡)には現在、熊野神社が鎮座します。

熊野神社(くまのじんじゃ)獅子ヶ鼻公園・静岡県磐田市大平

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