玄宮園 楽々園・彦根城の大名庭園
彦根城 / Wikipedia
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彦根城の表門から西の丸三重櫓を下ると、
彦根城のお堀の対岸に回遊式庭園を持つ名勝庭園「玄宮園」があります。
彦根藩4代藩主の井伊直興が延宝五年(1677年)から七年掛けて造営した回遊式庭園で、
隣接する楽々園とともに江戸時代には
「槻御殿(けやきごてん)」と呼ばれた彦根藩の下屋敷です。
玄宮園の庭は近江八景を模して造られたといわれる縮景園で、
大きな池に突き出すように建つ臨池閣、鳳翔台といった建物が特徴的。
樹木や石が巧みに配され、中心の池には4つの島と9つの橋が架ります。
玄宮園ではイベントも多く、毎年9月上旬~下旬には「虫の音を聞く会」、
11月には彦根の秋を彩る風物詩「錦秋の玄宮園ライトアップ」も開催されます。
彦根城 天守閣
彦根城に関しては、別のページで紹介します。
彦根城(ひこね じょう)の記事
黒門橋前から玄宮園 楽々園の入り口へ
八景亭
楽々園
彦根藩4代藩主・井伊直興が造営した玄宮園は、
琵琶湖や中国の瀟湘(しょうしょう)八景にちなんで選ばれた
近江八景を模して作られました。
彦根城の天守を借景に取り入れて、
池には4つの島と9つの橋が架かり、湖畔に臨池閣、
鳳翔台、八景亭などの建物を配置しています。
玄宮園(名勝)
城の北東にある旧大名庭園で、4代藩主直興が延び宝5年(1677)から
7年にかけて造営した。
中国の宮廷に付属した庭園を「玄宮」と言ったことから命名されたと考えられる。
江戸時代初期の庭を現代に伝える名園である。
大きな池に突き出すように建つ臨池閣、鳳翔台といった建物のほか、
広大な池泉を中心に池中の島や入江に架かる9つの橋など、
変化に富んだ回遊式となっている。
花の香りに蝉しぐれ、紅葉、雪景色と四季折々の風情を大名気分で味わえる。
鳳翔台
鳳翔台
鳳凰が大空に向かって舞い上がる場所という意味で
名付けられたと伝える格好の高台です。
「鳳翔台」の名は、江戸時代に描かれた「玄宮園図」に
玄宮園十勝(名勝10箇所)の1つとして描かれています。
絵図には高台の下に華やかに飾った船も描かれており、
時には船遊びに興じることもありました。
玄宮園(げんきゅうえん)
玄宮園は、江戸時代には「槻之御庭」と呼ばれていました。
隣接する楽々園は槻御殿と呼ばれ、延宝5年(1677年)、
4代藩主井伊直興により造営が始まり、同7年に完成したと伝えられ、
昭和26年には国の名勝に指定されています。
現在は、庭園部分を玄宮園、御殿部分を楽々園と称しています。
玄宮園の名は、古代中国の宮廷の名によって命名されたと考えられます。
園内を見渡す好所に建てられた数寄屋建築である「八景亭」の名から、
一説に中国の瀟湘(しょうしょう)八景または近江八景を取り入れて
作庭されたとも伝えますが、 江戸時代に描かれた「玄宮園図」に
八景亭の名はなく「臨池閣(りんちかく)」と呼んでいたようです。
そのほか玄宮園図には「鳳翔台(ほうしょうだい)」「魚躍沼(ぎょやくしょう)」
「龍臥橋(りゅうがばし)」「鶴鳴渚(かくめいなぎさ)」
「春風埒 (しゅんぷうれつ)」「鑑月峯(かんげつほう)」
「薩埵林(さったりん)」「飛梁渓(ひりょうけい)」「涵虚亭(かんきょてい)」
の十景が付箋によって示されており、
当時「玄宮園十勝」と呼ばれていたことが確認されています。玄宮園は、広大な池水を中心に、池中の島や入江に架かる9つの橋などにより、
変化に富んだ回遊式庭園となっています。
池の水は、湧水の豊富な外堀からサイフォンの原理により導水して供給し、
小島の岩間から水を落として滝に仕立てていました。
池には船小屋があり、園内で風流に舟遊びの一興を催すこともありました。
また、松原内湖に面した庭園の北側には水門が開き、
大洞(おおほら)の弁財天堂や菩提寺の清凉寺・龍潭寺への参詣、
あるいは松原のもう1つの下屋敷である御浜(おはま)御殿への御成りには、
そこから御座船(ござぶね)で出向いたようです。
■ 楽々園
楽々園
旧藩主の下屋敷で、槻御殿の名のほかに黒門外(前)屋敷とも称されたが、
現在は楽々の間にちなんで楽々園と呼ばれている。
1677年四代藩主直興により造営が始まり、1679年に完成、
その後数回にわたり増改築が行われ、
往時には能舞台を備えた広大な建物であったが、
現在では書院や地震の間、雷の間、楽々の間等の一部が残っている。
戦後、松原内湖が埋め立てられて、全く景色が変わってしまったが、
この屋敷からの内湖の眺めは伊吹山や佐和山、
磯山等を望んで非常に美しかったので、楽山楽水の意かとも思われる。
また「民の楽を楽しむ」という藩主の心を表したものでもあろう。
庭は枯山水で、布石の妙を極めている。開国の英傑井伊直弼の1815年10月29日に父直中の14男としてこの屋敷で生まれた。
楽々園は井伊家の下屋敷として井伊直興が造営開始しました。
江戸時代は「槻御殿」「黒門外御屋敷」と呼ばれていたそうですが、
第12代藩主・井伊直亮が、佐和山や内湖が見える楽々之間を造ってからは
「山を楽しみ水を楽しむ」と言う事で「楽々」の名が有名になったと言う事です。
地震の間(御茶座敷)
地震の間(御茶座敷)
江戸時代には、地震の時に逃げ込むための部屋を造った例は
いくつかあったらしいが、現存のものはほとんどない。
この地震の間は、日常、御茶屋敷として使用されていたが、
構造の細部を総合的に見ると、最初から耐震構造の意図のもとに
計画されたことは間違いないと思われる。
その根拠となる構造、手法の特色と仕手は、
人工的な岩組みによって建築地盤を堅固にしており、
柱がどだいに固定されておらず、天井裏で対角線方向に綱が張ってある。
さらには建物全体を軽快な数寄屋造りとし、屋根を軽いこけら葺き、
土壁も比較的少なくしている。
また下部の床組に大材を用いて重心を低くし、地震力を小さくする、
基本的な耐震建築の様式を採用している。
楽々園(らくらくえん)
楽々園は、玄宮園とともに彦根藩4代藩主井伊直興により建立された
彦根藩の二の丸御殿で、槻御殿と呼ばれていました。
現在は、建物部分を楽々園、庭園部分を玄宮園と呼び分けています。
槻御殿の建っている場所は、松原内湖に面した広大な干拓地でした。
江戸時代初期には、重臣の川手主水(かわでもんど)の
屋敷があったとも伝えられていますが、御殿や庭園の普請にあたり、
大規模な拡張工事を行ったと考えられ、その敷地面積は藩庁であった
表御殿(現在の彦根城博物館)をはるかに凌駕しています。
井伊直興亡き後、倹約令などにより楽々園の建物は
縮小気味に推移することが多かったと考えられますが、
文化10年(1813)の11代藩主井伊直中の隠居に際して
大規模な増改築が行なわれ、
その後間もなく楽々園は最大規模に膨らみました。
その大きさは現在の建物のおよそ10倍もありました。
現存する「御書院」も、その際に新築されたもので、
御書院に面して新たに「庭園」が築かれました。
現在、枯山水となっている庭園がそれですが、
古絵図を見ると満々と水をたたえています。御書院の奥はしだいに渓谷の風情をなし、
「地震の間」「楽々の間」などへと連なります。
地震の間は耐震構造の建物であるため今日そのように呼ばれていますが、
当時は茶の湯に用いる「茶座敷」でした。
楽々の間も同様に数寄屋建築であり、12代藩主井伊直亮により、
地震の間のさらに奥に増築されました。
「楽々園」の名の由来ともなった建物であり、
煎茶の茶室として近年注目されています。