二俣城跡 鳥羽山城跡・浜松市天竜区二俣町
浜松市天竜区二俣町にある「二俣城跡」と「鳥羽山城跡」を歩いてきました。
天竜川がU字に蛇行する独立丘陵上、隣同士に建てられた山城です。
2017年には「二俣城跡及び鳥羽山城跡」として国指定史跡に登録されたそうです
二俣城から天竜川沿いを鳥羽山公園まで、筏問屋 田代家を経由しました。
城山 二俣城跡(じょうやま)
標高 78m | 登山日 2019年2月18日 |
徳川家康と武田信玄・勝頼親子との攻防戦が繰り広げられた城として著名 | |
所在地 静岡県浜松市天竜区二俣町 |
鳥羽山(本城山) 鳥羽山城跡(とばやま)
標高 108m | 登山日 2019年2月18日 |
二俣城と「別城一郭」として密接な関係がある城 | |
所在地 静岡県浜松市天竜区二俣町 |
難易度 ★ オススメ ★★ | 登山口(ナビ検索) 城下公園 |
スタート(14:28)→小牧山(14:32)→ゴール(15:07) 所要時間 39分 高低差 69m 累積標高 102m / 100m 距離 2.2m | |
■二俣城跡及び鳥羽山城跡は、浜松市天竜区二俣町二俣に所在する戦国時代の山城です。両城とも、周囲を天竜川に面した天然の要害に築かれており、今川氏、徳川氏、武田氏、豊臣氏といった名だたる有力大名がその領有にかかわりました。 ■両城にみられる顕著な特徴は、中世的な土づくりの山城に、近世的な石垣が導入された初期の姿が良好に保存されていることといえます。二俣城には、深い堀や天守が備えられるなど要塞化が進められたことに対して、鳥羽山城には開放的な大手道や庭園が構築されるなど迎賓館的な性格が強められています。両城は、機能の違いが顕在化した「別城一郭」といわれる戦国時代の城郭の姿を具体的に伝えるものとして、高い価値が認められました。 ■二俣城は元亀3年(1572)から天正3年(1575)の間、徳川家康と武田信玄・勝頼親子との攻防戦が繰り広げられた城として著名。天守台や石垣は、天正18年(1590)から慶長5年(1600)の間に城主であった堀尾氏によって築かれたものと推定されている。 ■鳥羽山城跡は、二俣城の南に広がる東西1000m、南北350mほどの独立丘陵上に立地する。二俣城跡とは南北500mほどの至近距離にある。二俣城をめぐる徳川氏と武田氏との攻防戦の際に、徳川方の本陣が築かれた。 |
城下公園から
浜松市指定史跡
二俣城址二俣城の構造
標高90mの台地上に築かれた二俣城は、北側から北曲輪(くるわ)
本丸・二之曲輪・蔵屋敷・南曲輪がほぼ一直線上に配置されている。
天守台のある本丸の南・北にそれぞれ虎口(こぐち)を設け、
北虎口は喰(く)い違い虎口である。
本丸西側には小規模な天守台が残っており、石積みは野面積みである。
本丸の南側には二之曲輪があり、枡形(ますがた)門跡がある。
二之曲輪と蔵屋敷の間、そして蔵屋敷と南曲輪の間には
それぞれ堀切(ほりきり)がある。歴代二俣城主
二俣には現在、城跡が三か所ある。
この城山(しろやま)のすぐ南にある「鳥羽山城」、現在、市庁舎が建つ「笹岡城」、
そしてこの城山の「二俣城」である。
これらの三城はわずか2km程の距離内にあり、
当時、この一体は「二俣郷」と呼ばれていた。
このようなことから、当時の文書に「二俣城」と見えても
どの城を指すのか確定するのは難しい。
ここでは、「笹岡城」を斯波・今川両氏の抗争期から永禄期(1500年前後〜1560年)
までと考え、「二俣城・鳥羽山城」を徳川・武田両氏の抗争の場となった永禄期から
元亀・天正・慶長初年(〜1600年前後)までと考え、文書を基に歴代二俣城主を紹介する。二俣城をめぐる攻防
永禄11年(1568)12月から天正3年(1575)12月までの7年間、
二俣城は、徳川・武田両氏の攻防の舞台となった。
二俣城は天竜川と二俣川の合流点に位置する天然の要害であり、
しかも、二俣は遠江の平野部と北遠の山間地方とを結ぶ交通路の結接点で、
遠州平野の「扇の要」であったからである。<元亀3年の攻防>
元亀3年(1572)10月、武田信玄は大軍を率い、
信濃を経て遠江に進入し二俣城を攻撃した。
武田軍は力攻めの方法をとらず、城の水の手を断つ作戦を選んだ。
徳川軍の城兵が崖に櫓(やぐら)を建て、釣瓶(つるべ)で
天竜川から水を汲み上げているのを知り、上流から筏を流して井戸櫓の釣瓶を破壊した。
こうして2か月ほどで二俣城は陥落した。<天正3年の攻防>
天正3年(1575)5月、長篠の戦で勝利を得た徳川軍は、
武田勢を一掃すべく二俣城の攻撃に着手した。
鳥羽山に本陣を置き、毘沙門堂(びしゃもんどう)・蜷原(になはら)・渡ケ島に
砦(とりで)を築き二俣城を包囲した。
武田軍は7か月で兵糧(ひょうろう)が底をつき城を明け渡した。
そして、二俣城には大久保忠世が入城し、徳川氏が関八州へ移封する
天正18年(1590)まで在城した。
この間大規模な修築がなされ、天守台を始めとする諸施設を構築したと考えられる。徳川信康自刃事件
大久保忠世が在城中に起こった事件として、
有名なものに家康の嫡子(ちゃくし)信康自刃(じじん)事件がある。
一般には、信康とその母築山(つきやま)御前が武田氏と通じていたことを理由に、
織田信長が信康を切腹させるように家康に命じたとされている。
家康はこれを受けて信康を天正7年(1579)9月15日、二俣城で切腹させた。
この事件は戦国哀史として広く知られている。
平成8年11月1日 浜松市教育委員会
二俣城跡
天竜川沿いを鳥羽山公園へ
鳥羽山
笹曲輪
笹曲輪 展望台より
鳥羽山城 本丸跡
浜松市指定史跡
鳥羽山城跡(とばやまじょうあと)
鳥羽山城は、東西500m以上におよぶ標高108mの独立丘陵を巧みに加工して築城されています。土塁や石垣が良好な状態で残され、本丸内部では礎石建物や庭園が確認されています、また、大手道は幅6mを超える破格の規模を誇ります。こうした特徴から、鳥羽山城は迎賓機能を備えた領主の居館だったと推定できます。一方、隣接する二俣城(ふたまたじょう)では、天守が築かれ、軍事的な機能にすぐれた城郭が整備されます。両城はその性格が対照的であり、「別郭一城」であると考えられます。
徳川方と武田方による攻防の際には、武田方の二俣城を攻めるために鳥羽山城に徳川方の本陣が置かれました。その後、家康の関東移封に伴い堀尾氏が遠江に入ると鳥羽山・二俣両城は石垣が築かれるなど現在の姿に整備されていきました。
本丸 展望台
展望台より望む浜松市街
遊歩道案内
鳥羽山城跡から天竜川方面へ降りてみると
史跡 筏問屋 田代家の敷地へ